ペットロスの境目
ヒルカちゃんが亡くなって3日目。
昨日、火葬をしてもらった後、お骨を猫の体状にトレーに
並べてもらい、僕が全てのお骨を拾ってあげた。
その際に、残った爪があまりに愛らしくて、
少しだけ手元に残すことにした(扉写真)
先月の母を別にすれば、この数年で、黒猫のチビ丸、
チワワのまめ太郎、そして今回、ヒカルちゃんを見送った訳だが、
なぜか一番泣けて仕方がない。
ここ数日、「死の想念からの開放」というタイトルで記事を
書こうと思っていた。
内容は、母を亡くしてみて、「いつ死ぬか、いつ病院から電話があるか」
という不安をずっと抱えていた。
僕は、ADHD由来なのかどうか分からないが、何かをする時
(短距離を歩く時、冷凍庫から氷をコップに移す時、その他あれこれ)
数を数えるクセがある。
そんな時に、最後の数字が4や9、13などだと縁起が悪い気がして
4(し)で終わると、母が亡くなるのではとか、無為な想像を
していた。
いつかは必ず訪れる「お別れ」なので、どうしても避けては
通れない。
それが、早いか遅いかの差だけで、実際に亡くなれば、
通夜、葬儀、遺産のあれこれ、役所の手続き等々、
煩雑な作業が待っている。
このことを考えると、ずっと「母の死」から目を背けていた。
が、実際、母を亡くして、それらの作業を終えてみると
正直、ほっとする気持ちがあり、これからは4という数字に
こだわらなくていいのだという開放感があった。
その時には、22歳のヒカルちゃんのことは頭の中にはなかった。
ヒカルちゃんは猫の平均寿命が16歳という中で、22歳まで
病気ひとつせず生きてきたので、漠然と、日本記録(36歳?)を
狙えるのではないかなどと悠長に構えていたのだ。
だけど、体を動かさなくなって数日で他界してしまった。
「ヒカルちゃんの死」というのを想定してなかっただけに
余計に悲しいのかもしれない。
この夏から、いくつもの「死」を経験し、仕事でも
この1〜2ヶ月で、ぐんと生徒が減っている。
不思議と受験が重なる生徒が多く、受験前に一旦辞めるという
生徒が多く、今年はそれが例年になく多いのだ。
当然、収入も減る。
母から援助してもらってたお金や、仕事上の収入など
合わせれば軽く10万円を超える。
なので、生活面も不安だらけだ。
けれど、乗り越えられない試練を神様は与えないと言われるように
今の僕にとって、これらの「試練」は必要だから
起こっているのだと、心の冷静な部分では思ってもいる。
なので、悲嘆にくれるのではなく、前向きに進もうか、と。
そんな中でのヒカルちゃんの死だったので、余計に
ダメージを受けたのかもしれない。
これから年末まであれやこれやと忙しい日が続く。
ヒカルちゃんだって、僕がずっと悲嘆にくれることは
望んではいないだろう。
元気を出して、明日からも生きてゆきたいです。