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普及という概念-日本社会の実践的普及について

『普及』とは何か


現代社会を生きる我々はこの根本命題を避けて通ることは出来ない。


何故なら、好む好まざるとに関わらず『普及活動』は我々の基本的な欲求になっているからである。

私は自著『超陽キャ哲学』において、陽キャとは能動性の異名であると述べた。これは一面的には真理であるが、この言い換えの文底には、社会という流動体に対する原動力としての社会変革の意味合いが込められている。陽キャ哲学を自己啓発的な個人主義の文脈で捉えるのであれば、収入の上昇や異性の獲得などの自己実現が能動性の回復によって可能になるという極めて実利的な提案が成り立つ。


宮台真司は、個人が感情の劣化が社会全体の劣化を引き起こすとして『君がモテれば、社会は変わる。』という著書を出版した。宮台氏は聡明な社会学者であるので、本当にこのようなことを信じていたとは思えない。つまり、彼には大目的があり、その動員のための方便として自身のファンに対する実利的な提案を行ったのだろう。

つまり、彼の社会学には隠された意味があると考えるべきである。個人最適を選び続けることは、ゲーム理論においての最善ではあるが、共同体の進化を促すことと個人最適が素朴に一致することは稀である。



宗教が信者に慈愛や自己犠牲を説くのは、共同体が本当の意味で個性や多様性を称揚すれば、その共同体は衰退するからである。


献身と多様性を一致させることが不可能なわけではない。例えば、投資という概念は出資者の金儲けと投資を受ける事業者の資金集めという二つの利害が素朴に一致する。

しかし、これは稀有な一例であり多くの場合多様性や個性は、単に無意味な分断を引き起こすことの方が多い。常々言っているが、我々はゲーム理論から脱却しなければならない。多様性は痛みを伴う。WIN-WINは副産物として得られるかもしれないが、基本的に我々は社会変革という『普及』のために孤独を受け入れなければならない。


我々は生来的に陽キャであるという性陽説を唱えたが、それは理論的には正しいが多くのものにとって、自身の本来の姿を見ることは、太陽を肉眼で直視するようなものである。大衆への認知は重要であるという理想論は正しいが、如何せん実効性が薄い。次なるフェイズとして陽キャ哲学を運動論に落とし込む必要がある。これは新しいエリート主義の勃興を意味する。『陽キャ哲学』を原点とする運動論、それは『普及それ自体』というアカデミズムに代わるエリート主義である。今回は、どのようにして普及的エリート主義がアカデミズム的なエリート主義を乗り越えるのかという題目について考えていきたい。


『和を以て貴しとなす』精神性

聖徳太子という個人は和を重んじる平和主義者であったかもしれない。しかし、その聖徳太子が逝去して直ぐに、天皇の末裔たちが大化の改新で異教の政敵を皆殺しにしたことを思い出してほしい。このような事象は日本に限らず世界各地のあらゆる歴史において起こっている。一つの共同体に複数の宗教やイデオロギーは成立しえない。


それは現代の自由主義社会においても例外ではない。法の秩序により、表立った殺戮や差別は息を潜めたが、人間という種族が多様性への寛容を身に着けたわけではない。基本的には軸となる特定の文化を称揚して、そこから逸脱しすぎない個性を妥協として許容しているに過ぎない。

日本やアメリカ合衆国は自由主義国家であるが、イスラム主義者に寛容になる未来はないであろう。如何なる社会的提案を普及したとしても、それが多数派になった時点で多様性としての機能は失われてしまう。


私の言う『普及』とは東ローマ帝国を滅ぼしてオスマン帝国を築くことではない。


二つの帝国のヘゲモニーが遷移する中で、文化として生きることである。

多数派の責任領域を政治とした場合、少数派の責任領域は回収である。
ヘゲモニーは敗者に対して残酷さ以外の何者でもない。このようマッチョイズムを、権力や既得権益であるとして一蹴しない。彼ら彼女らの機能としての側面は大いに認める。武士や華族は日本の表の文化を作ったが、彼らはHIKAKINやAdoを作ることはできなかった。


少数派を自認する陽キャ諸君がしなければならないこと、それはサブカルチャー批評である。


私はVTuberやアニメ漫画という日本が誇るサブカルチャーを、哲学や文化論というアカデミズムの色眼鏡を通さずに純粋に批評していくことが、今後の普及活動にとって重要であると考える。

批評の歴史は古く、アリストテレスの『詩学』には当時流行していた喜劇や悲劇などへの極めて個人的感想に近いカタチの言及がみられる。アリストテレスは先達であるプラトンと違い、政治よりも文化に深い関心を抱いていた。アリストテレスはプラトンやソクラテスの行いすらもエンターテインメントとしか見ていなかった。

オタクとして何かを批評する際に、東京大学や京都大学は必要条件ではない。エンターテインメントは、それ自体を探求することによって多数派の意識が流動していく営みであると考える。普及に形容詞があるとすれば、それは『在野による』普及という意味になる。研究者を名乗る自称エリートが飯の種のために、サブカルチャーを研究するのはゲーム理論のニッチ戦略的には正しいが、普及はゲーム理論ではない。供給過剰や需要の無さは市場が勝手に判断すればよい話であり、普及者には関係がない。

「誰でも彼でも批評者になれ!」という提案は、質の担保が問題となるだろう。しかし、有名になるためや金を稼ぐためという目的のために、サブカルチャー批評をするには極めて効率が悪いということを指摘しておこう。これは芸人や芸術家にも言えるが、そもそも金や名誉が目的なのであれば、もっと確実な方法はいくらでもある。手段として面白いものであるからこそ、万人に対する参入を推奨できるのである。


例えて言えば、トイレ掃除を万人に推奨しても社会的意義はなく、誰も喜んで参入するとは思えないが、現在、YouTubeやTikTokの発信者の数は鰻登りである。彼ら彼女らの多くは一円も稼げていないのにである。これは質を求めて少数のエリートを称揚するよりも、大衆にプラットフォームという道具だけを与えて放置した方が、普及のためになるということの証左であるといえよう。

新旧エリート主義の孤独

私はここまでアカデミズムによるエリート主義を批判してきた。しかし、本記事冒頭でも述べたように孤独に耐えうる実践的な行動哲学を万人に委ねることはできない。普及それ自体普及協会は選民的にならざるを得ないのである。勿論、理論としての陽キャ哲学は万人に開かれているが、実践は想像以上に困難である。

まず、受験、就職、結婚、中流階級のような幻想を捨てるところは大前提となる。なぜなら、新しいルールを作る側であるルールメイカーが旧世代のルールに固執していては普及に説得力が欠けてしまう。
貴族制を批判する革命家が貴族に憧れている、もしくは貴族社交界に参加していたらどう思うだろうか。
そのうえで、旧世代の共同幻想を『あえて』テーマとして発信するということは否定しない。


例えば、○○就職チャンネルのような一面的には就職を称揚するチャンネルにおいても、就職をエンタメとして消費することで、就職に就活生が消費されないというメッセージを発信できる。


また就職という資本主義社会へ参加を、脱市場的な底辺YouTuberが発信するという皮肉も面白い。旧世代の価値を取り扱うにしても、既存の概念と自身の造語で脱構築を行うことが至上命題となるだろう。


つまり、月並みな言葉に換言すれば、自分だけのテーマを持つことである。それは対象がユニークであるがゆえに、おいそれとは周囲の共感を得ることが出来ない。結果として孤独を味わうことになるだろう。

エリートの孤独として語られがちなエピソードは自身の修練や努力量に対して、周りが少なすぎるため共感者が得られず孤独な思いをするというものである。エリートの孤独と言われて連想するのは、電通過労死事件の被害者である高橋まつりや昭和の文豪たちの自殺ブームなどであろう。そういった理解者や相談相手の不在にじわじわ苦しめられる孤独ではない。理解者を集めようと尽力するが、理解者が集まるころには新しいことを始めるので、また孤独になるという孤独の循環である。つまり普及の英訳は『インフルエンス』よりも『スプレッド』に近い。永続的に影響力を与えるカリスマになる必要はない。アイデアをぶん投げて消える統合失調的教祖、スキゾキッズが肝要である。


統合失調症的教祖の実践は陽キャ哲学においても重要なテーマであった。

アメリカ哲学の始祖であるジェームズ&デューイのプラグマティズムを継承する立場は、同じくアメリカ人哲学者であるローティのネオプラグマティズムとして現代も人気が高い。しかし、実践となると多くの哲学者は口を閉ざしてしまう。

VTuberや匿名掲示板のような日本文化と相性の良いテクノロジーを日本人として活用して、日本のプラグマティズムを実践していきたい。
その為には、YouTuber、VTuber、note著作者を最低でも1000人は排出しなければならない。

普及それ自体普及協会の運動論を構築する際に、既存の運動論(マルクス主義やポストモダニズム)差異化をしなければならないという批判に対しては、既存の運動論の多くは日本を期限とするイデオロギーではなく、猿真似しても上手くいかないという反論を挙げておこう。

日本社会を変革するうえで、アニメや漫画、5ちゃんねる等の日本のサブカルチャーを重用しない手はない。サブカルチャーを使った具体的な普及については、今後も発信を続けるつもりなので注視してほしい。



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