勉強からの解放
熊本で勉強を教えない個別指導スクール「はらっぱ探究室」を運営するトミマツシホです。このnoteでは、私が日々「学び」について考えていることや、私自身の「学び」について書いていきます。
突然ですが、みなさんは「勉強」と聞いてイメージを持ちますか?
「つまらない」「面倒」「キライ」「苦手」?
「面白い」「好き」「楽しい」「得意」?
子どものころから得意で好きだった人もいれば、大っ嫌いだった人もいる。
途中で嫌いになった人もいれば、好きになった人もいるでしょう。
大人になってから、「あー若いときもっと勉強しとけばよかったー」なんて後悔しているのもよく聞かれます。
そして「子どもには勉強で苦労してほしくない!」という親の願いもよく聞かれますよね。いずれにしてもなんだかネガティブなイメージがつきまとう。けれども、とても大切なカンジもするし、「勉強」ってなんだろう。不思議な存在ですよね。
ちなみに私は小さいころから「勉強」が好きで楽しくて仕方がありませんでした。けれど、高校の頃に大嫌いになりました。なぜならば学校の授業に全くついていけなくなったから。「分からないこと」が「つまんない」ってなりました。それから、大学に進学して「勉強」が再び好きになりました。理由は単純に自分の知りたいことばかりの授業だったから。「分からないこと」が「楽しい」って感じていました。
「分からないこと」を「楽しい」と思うか、「つまんない」と思うか。
ここに「勉強」って言葉を紐解くヒントが隠されているような気がします。
「勉強」って「勉めて強いる」と書きますよね。なんか誰かに無理やりさせられている感じがしません?私が「分からないこと」が「つまんない」と感じたのは、誰かにさせられていたから。高校のカリキュラムに沿って、やりたくもない超苦手な物理をひたすら解かされて、ウンザリだったのも「勉めて強いた」ものだったからなのかもしれません。
一方で、大学時代、「分からないこと」が「楽しい」と感じていたのは先述の通り自分がやりたかった学問だったから。知りたい気持ちが溢れて、分からないことに興奮し、調べ尽くし、知識の世界の広さ深さにワクワクしました。「心からやりたい・知りたい」気持ちが、楽しさを連れてきてくれました。
「勉めて強いる」ものと「自らの喜びのため」のもの。
前者を「勉強」と呼ぶのであれば、後者は何と名付ければよいのでしょう。
モヤモヤの最中、私はとある一つの考え方と出会いました。
それが「学習学」における「学習」です。(※「学習学」というのは本間正人氏が提唱する、学習者が主体となった学びを体系化する学問。)
自分の意志で選んだ物事を「自らの喜び・向上」のために「学び、習う」。なんだかとっても前向きな感じがしませんか?
「勉強」から解放されよう。
「学習」を楽しもう。
そうすれば「学び」というものはもっと自由に、多くの人が、前向きに取り組めるものだと考えています。
はらっぱ探究室では「勉強」は一切行いません。お子様一人一人がやりたいことを自分で選び、自分で決め、自分で考え、自分で行動していきます。大人はそのサポートをするのみです。
前向きな「学び」への姿勢と、「考える力」を養います。
「学ぶ喜び」をはらっぱ探究室で一緒に見つけませんか?
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