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コミュニケーションで行き交う交通社会
悲しい交通事故が全国各地で起きている。
交通事故は内容こそ変われど、自動車が大衆化して今日に至るまで起き続けているだろう。
車の安全性能が進歩しても事故は無くならない。
ドライバーだけではなく、歩行者や自転車、バイクにも原因はある。最近では、自動車を運転させている事業者側の責任も問われる事故もよく起きる。
特に高齢者ドライバーがもたらす交通事故は悲惨すぎる。
僕の身近にはまだ交通事故で悲しい思いをしている人はいないのだと思う。
まだ起きていないだけでいつ起こるかわからない。
いつ被害に合うのかも、加害者になるのかも予見ができない。すべての事故を無くすことはできないかもしれないが、普段考えないようなこと、「起こらなくてもよいはずの無駄な事故」について考える。ちょっと面倒なことでも考えることが改善行動の第一歩だと思う。
取り上げるのは我がふるさと、「岡山県」の交通マナーから考える良い交通社会。
各都道府県でも事故原因や、交通マナーの良し悪しは異なるだろうけど、岡山県の交通マナーは幼稚だ。
今回は「岡山の交通マナーあるある」ではない、岡山県を取り上げながらも、どうしたら無駄な交通事故がなくなるのか考えていくためのnoteだ。
我が町を少し揶揄しながらもまじめにnoteに書く。
僕には二人の息子がいる。9歳のお兄ちゃん「ゆう君」と5歳の弟君「たけちゃん」。
別に息子の話は関係ないけど、僕はかわいい我が子に対して、この恐ろしい交通社会で生きていく術を教えていかなければならない。
彼らは大人が運転をするからといって、決してみんなが運転が上手ではないと認識してくれている。
僕は我が子に「周囲を確認しないドライバーが車ごと突っ込んでくることもあるから、君たちが周りを確認しなさい」となんとも無茶なことを言っている。
少し乱暴な表現だが、岡山県ドライバーの多くはコミュニケーションレベルがかなり低い。
例えば岡山県ドライバーはウィンカーを出さないということで悪名高い。
これは、自分がどっちに曲がるのか、これからどうすかの意思表示だ。自分が何をしたいのか、どららの方向に行きたいのかさえ示すことができない。
岡山県民はウィンカーを出すことを恥ずかしいと感じるようだ。
いやいや、通常の顔を合わせたコミュニケーションでは、自分の意思をはっきり言えずにモジモジしているほうがよっぽど恥ずかしい。
またこのウィンカーを出すのは初心者という認識を持っているらしい。
だからか、曲がる直前、曲がりながらやっと合図を出す・・・。
僕が5歳のだけちゃんに教えていることは、「横断歩道を渡るときは手を挙げようね。適当に挙げても、運転手さんに見えなかったら意味がないよ。」と。
たけちゃんはきちんと手を挙げて渡ってくれる。
ウィンカーは曲がるから出すのではない。自らが次にどのように行動するのかを後続車と対向車、ならびに交差点付近の歩行者や自転車の相手に意思表示するためにある。
そのコミュニケーションであるウィンカー合図を受け取った相手は、「少し待っておこう」「早くわたってあげよう」などの判断ができる。
「合図を出す」のではなく、「相手に見せる」ことが一番重要だ。
どこの都道府県も同じかもしれないが、渋滞時は割り込みも多い。いや厳密には割り込んでいるつもりはないのだろうけど、ウィンカーがないものだから割り込まれたように感じてしまう。
僕は普段、例えばスーパーでのレジを待っていて、一言もなく(一言あったとしても嫌だが)割り込まれるとかなり不快になる。
ウィンカーを出さない岡山県民の多くは平気なのだろうか??
普段レジ待ちでも平然と割り込むのだろうか。
だとしたらかなり痛い。。。
10歳のゆうくんは、通っている体操クラブの影響で知っている大人やお世話になった人には挨拶とお礼をするようにしいている。
もともと引っ込み思案だったが、必要に駆られて、あるいは何かが芽生えて挨拶ができるようになった。
交通社会は、特別な社会ではない。我々が暮らす社会の一部だ。何も違いはない。私たちが日々暮らしている交通社会は、ほかの社会と比べてコミュニケーションが不足しているように思う。
交通社会という「社会」に属している気がしていないのだろう。車という個の空間にいることで、自分の世界にいるように感じるのだろうか。
僕の願い
交通社会でのコミュニケーションをもっと盛んにしていこうよ。
何を照れてるの?あなたがどちらに曲がりたいか教えて。早めに気が付けば譲ってあげられるよ。渋滞が避けられるかもよ。
周りを見て、対向車のドライバーの視線を見て、無視はしないで。手を挙げて合図するのもコミュニケーションだよ。
曲がり切った後でハザードランプをピコピコさせても、なんの意味なのか分からないよ。
割り込んだ後で出すハザードは時として他のドライバーの怒りを買ってしまうよ。
ウィンカーの話からわかるように、ウィンカー合図を出すことはコミュニケーションであるということが理解されていない。残念ながら出さなきゃいけないルールだからという幼稚なレベルでの解釈でしかない。
もうひとつ例を挙げると夜間になる前、薄暮の時、立体駐車場内やトンネル内でのライトを点けないドライバーも多いと思う。
これも「まだ明かりを点けなくても自分は見える」という主観的にしか考えないので、薄暗い中で車がビュンビュン走っている。
コミュニケーションの観点で言うと大きな間違い。
自分が見えるからではなく、相手に気づいてもらうために早めの点灯が必要だ。
存在感を消し去るのが上手いドライバーが多い!そうでなくても最近の車は静かでエンジンがかかっているのか疑ってしまう。
僕は自分でもなんて幼稚な内容をまじめに書いているんだと思う。
恐らく多くの人からは、こんなつまらない内容に興味関心をもってもらえないだろう。
だけど、僕は自分の家族を守りたい。
時折凄惨な事故が度々起きている一方で、
ニュースにならないような小さな事故は毎日どこかで起きている。
何が原因かは知らない。
脇見運転やスピード違反など事故の要因になることはいくらでもあるだろうが、起こさないようにするために、周囲とのコミュニケーションをとることを交通社会でのコミュニケーション意識を高めたい。
近頃の若者は挨拶ができないとか、会議では手を挙げて発表しないとか、性格が暗いだの。
そんな文句を言っている「いい大人」たちが率先してコミュニケーション溢れる交通社会を意識して築いていかなければならない。
もう何年後かにはこんな話はどうでもよくなるだろう。
自動運転が私たちの交通社会をガラリと変えてしまうだろう。
自動車の運転は人間にしかできない高度な技術だと思っていた。
車の運転が好きだから僕は寂しい。けれど自動運転が交通社会の未来のカギを握っていることは間違いない。
ただ、人間としてできることはやっておきたい。
何も考えなくても移動できる時代がやってくる。それにあらがう必要はない。やがて訪れるのだろうから。けれど、私たちは自分で考えて意識して行動することを、今からでもやっておきたい。
人間として誇りを持たなければならない。
僕は教習所の先生でも、警察官でもない。
幼い息子を持った一人の父親であり、一人の社会人だ。
そしてコミュニケーション溢れる、明るい交通社会を望む一人のドライバーでもある。
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