ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドとルックバック
(下書きに残っていたものに加筆修正。なので今更感満載)
レオナルド・デカプリオとブラッド・ピットが主演の映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、
略して“ワンハリ”を観た。
なぜ観たかといえば『ルックバック』の中にこの映画のDVDジャケットが描かれているとSNSで知ったから。
ぼくは関連作品とか全く興味がないタイプだったんだけど観ました。すごく面白かった。
『ルックバック』を読んだ人はもれなく観るべきだと思う。というか『ルックバック』を読んでいなくても是非観て欲しい。見終わったあと自分の気持ちが前向きになった。とても良かった。あと『さよなら絵梨』を読んだひとにも観て欲しい。
(↓ワンハリの感想はこちら)
『ルックバック』と『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を比較しての感想とちょっと考察。
こういう“解説”まがいのものを「野暮だ」と思う方はブラウザバックして下さい。
あくまで個人的な考察ですので気軽に読んでいただけるとありがたいです。
以下ネタバレ注意。
◻️2作品の“フィクション”について
SNSでも散々指摘されていた、
藤野のもしもの世界は「ワンハリ」のオマージュだ、という意味が、映画を観てようやくわかった。
「ワンハリ」はアメリカで実際に起きた“シャロン・テート事件”を題材にした作品で、
史実ではシャロン・テートはマンソンファミリーというカルト集団に殺されてしまったが、
映画の中ではマンソンファミリーは主人公のリックとクリフによって撃退され、シャロン・テートは少しも暴力にさらされることなく生き延びた。
これを『ルックバック』に当てはめるなら「シャロンテート=京本」ということになるだろうか。
シャロンテートは実際殺されてしまったが映画の中では生き残っているし、
京本も実際殺されてしまったが藤野のもしもの世界では生きている。
ワンハリもルックバックも“現実とフィクションは区別すべき”という主張が主軸になっていると思っていて、
マンソンファミリーも藤野も、フィクションを現実とごちゃまぜにしないでフィクションとして享受することが出来ていれば、純粋にフィクションを楽しめたのになぁと思った。これは我々読者にも言えることだ(個人的な感想)
けどワンハリではフィクションは絶対に必要なんだという強い意志を感じたのに対してルックバックはフィクションの存在に対する迷いのようなものがあって、
(藤野が再び漫画を描き始めたことを「フィクションは存在していい」と肯定的に捉えるのもアリなんだろうけど)
藤野の場合、フィクションは絶対に必要だ、という確信にまでは至っていない、という印象だった。藤野はフィクションを作り出すことは出来るけど、現実を“もしもの世界”にすり替えようとしても現実を癒すことは出来ないこと、だけど前を向く力をくれたのも京本のフィクション(4コマ)だったこと、この「フィクションは良い面も悪い面も両方あるよね」、みたいな曖昧な感じが、むしろ現実っぽい。ワンハリにはあった「ヒーロー=フィクション」というわかりやすい構図のほうがフィクション感が強い。
どっちが良いとかではなくて2作品の終わり方に作者の個性が出るなぁと思った(どちらの終わり方もぼくは大好きです)
◻️“藤本タツキ”というフィクションについて
…2022ジャンプフェスタ(2021年12月18日に配信れたもの)の担当編集の林士平氏と藤本タツキ氏のインタビューめちゃめちゃ面白かった…。インタビューの内容をこういうところで勝手に書いて良いのかよくわからないんですが。
藤本タツキ氏は「『ルックバック』に一切自己投影していない」と語っている。
これをきいたときぼくはものすごい衝撃を受けて、自己投影ゼロでこんなすごいものが描けるはずがなくない????(酷い思い込み)と思って頭を抱えましたよ。
でも作者本人がしてないってんならしてないんでしょうね!ああそうですか!(当時心の中で作者に逆ギレしていた気がする)
あと『ルックバック』に自己投影していないなら、もしかして短編集のあとがきの
「そろそろこの気持ちを吐き出してしまいたいと『ルックバック』という漫画を描きました」
というコメントも100%嘘だったということ?ってことはメダカの話も嘘??つまり「藤本タツキという存在自体をフィクションとして作者が演出でやっている」ってことなのか???と思って何が作者の本当で何がフィクションなのかわからなくなってしまった。
ファイアパンチの単行本の帯のコメントはまぁ“キャラ”っぽいなぁと思ってはいたものの、
まさか短編集のあとがきまで“キャラ”だったとしたら相当ショックだなぁと…。
ここまで徹底して作者がキャラ被るなんて空前絶後前代未聞すぎて理解が追い付かなかった。
でも“あとがき”まで作者の“本当”だと勝手に思い込んでいたのは他ならぬぼく自身だったし、
藤本タツキ氏はいつもびっくりすることしかやらないのでまぁしょうがないかと個人的には落ち着きました(なんの報告だ)
ぼくはずっと『ルックバック』を作者の自己投影だと思っていたわけなんですけど、というか、ぼくはちゃんとフィクションと現実の区別をしてフィクションに向き合っていると思い込んでいたんですけど、
「作者の自己投影」とか言ってる時点でフィクションと現実をごちゃ混ぜにしてしまった結果だったんだと反省。
いやでもそう読みたくなるでしょ…。…藤本タツキ氏イレギュラーすぎるでしょ…。
いや、反省します…。…します…???
◻️リックとクリフは2人で1人
ワンハリには売れない俳優、リックとそのスタントマンのクリフが登場する。スタントマンというのはメインキャストの影に隠れて存在が消えてしまう。消える、というかスタントマンが登場しても映像を見ている視聴者からすればスタントマン(クリフ)ではなくメインキャスト(リック)として認識する。スタントマンとはまるで“影”のような存在なのだ。
この“影”で言うと『ルックバック』でかなり印象的だったのが絵の“陰影”。
特に藤野と京本が初めて顔を合わせた時の陽光と影の描写はすごく美しいと思う。このとき京本は“影”の世界に居て、藤野は“光”の世界にいる。
それが「漫画を見せる」という約束をして別れた後、光の世界にいたはずの藤野も曇り(雨)という“影”の世界に入っていく。
じゃあ“光(メインキャスト)”は誰?という話になるんだけど、それは“通り魔”だと思う。
藤野のもしもの世界で、通り魔は光の側に居て、京本を影の方に追いやっている(正確に言えば避けた結果影の方に行ってしまったわけだけど)
京本は藤野にとっての光側(読者)だったわけだけど、通り魔にとっては影側(作者)だから影の方に追い込まれたということかな…?
『ルックバック』の感想や考察を漁っていると
「藤野は漫画家として成功して圧倒的強者であるのに対し、社会的弱者である通り魔をただの犯罪者として描いていて、強者が弱者を倒そうとする構図は酷い」(意訳)
というような記事を散々見てきたが、
個人的には「逆じゃね?」と思った。
藤野は読者(友達やクラスメイトや家族)に良い評価を貰えなくなって、「漫画を描くのをやめた方がいい」と言われて漫画を描くのを辞めてしまったし、逆に京本に褒めちぎられて再び漫画を描き始めている。
この藤野の漫画を描く、描かないという運命を握っているのは紛れもなく“読者”で、作者側からすると、“読者”こそが圧倒的強者だ。
しかも藤野はたぶん「ジャンプ」で連載していて、ジャンプは人気投票によって連載の継続または終了が決まるので、読者の方が作者より権力が強い。作者は続けたいと思っても読者からの人気がなくなれば辞めざるをえないから。
こういうことに無自覚な読者が作り手を攻撃するような“通り魔”は自分自身なのではないか?ということを、いま一度己の心に問いただしていただきたいなと思います(何を偉そうに)
その逆も然りで、読者こそが作者にとっての“光”でもあり、漫画継続の原動力でもあるんだろうなぁと。藤野に再び漫画を描く心を復活させてくれた京本のように。
映画では俳優とスタントマンどちらが欠けてもフィクションを作ることが出来ないように、
漫画家と読者のどちらが欠けてもフィクションは成り立たないんだなぁと改めて作者と読者の立場について考えさせられた。
…で、京本は読者であると同時にアシスタント(背景美術を描きたい)という作者側でもあった。つまり京本は光(読者)と影(作者側)の両方を併せ持っていて、
そして通り魔も読者と作者の両方を併せ持った存在だった。通り魔のシーンを見てみると確かに背中側から光が当たって顔側は影になっているから光も影も両方ある。…この読み合ってるのか…?
さっき読者の方が圧倒的強者だ、と言ったけど、
光と影の両義性を考えると漫画の継続、終了という分岐は読者だけではなく作者側にも問題があるんじゃないかと。
『ルックバック』の世界の中で藤野が漫画を辞めたり、再び描いたりしていたのは“読者(京本)”の存在があったからだと藤野自身が思っていたわけだけど、京本の4コマ漫画によって藤野は“自分自身の意志で漫画を描くことを決めてきた”ということに気づいた。藤野が漫画を辞めてしまったのは通り魔のように
“絵画から自分を罵倒する声が聞こえた”(『ルックバック』修正前の通り魔の証言)といった類いの“自己否定(思い込み)”によって藤野が漫画を辞めた、というのがひとつの要因としてあるということだと思う。(藤野は自分の絵が京本よりも劣っていると自己判断しているし、描いても何も役に立たないのに、といつも自分の行動に否定的だった)
作者の心の中の自己否定と読者側からの否定が併さった時、フィクション(漫画=読者と作者)は死ぬ。
藤野の自己否定は読者を優位に置いた結果だろうし、読者(通り魔)の攻撃は作者を下に見た結果だと思う。
作者とアシスタント、そして読者の立場は対等であるべきなのではないか?という問いを突きつける作品だったんじゃないかと思った。
最初の方でシャローンテートは京本だと書いたけど、京本はクリフにも当てはまるし、いろんな解釈が出来て本当に面白い。
ワンハリを見ていなかったら「読者の方が強者」という感想で止まっていたと思うので作者の提示している作品は必ずチェックした方がいいと思った。
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