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どうしても年賀状を書きたくて——利己と思慕

中学生のころからずっと、年賀状を書いています。
高校生になって、クラスメイトに住所を聞いたとき、すっごい変な顔をされました。

今でも年賀状を書き続けています。
大半は返ってきません。

LINEやDMで返事をくれる人はいます。
しかし、僕のやっていることは完全に時代錯誤でしょう。

それでも、どうしても年賀状が書きたいんです。

誰かと共有できることなら

自分が頑張れる瞬間・喜びを感じる瞬間は「誰かと共有」できる未来が想像できるときです。

資格を取って給与アップ?
そんなんじゃぜんぜん頑張れません。

Audibleでウキウキしながら児童文学を聴いています。
子どもたちと話せると分かるからです。

不登校の子どもたちと、塾の子どもたちと、読んだ本の内容を共有して、楽しい時間を過ごせるとわかるから頑張れます。

もはや頑張るという意識以前に行動が先立っています。

孤独の中での切望

1人代表として働いています。
お祭り男なのに、孤独の中を生きることの方が多い日々です。

大学院進学を目指しているとき1人。
修士論文を書いているとき1人。
仕事をしているとき1人。

自分が思っていたよりも何倍も何倍も1人の時間が多い人生になりました。
追究したいことがあるから、それは仕方ない。

だからこそ、人と関われる瞬間への喜びが深まっています。
読書が大好きなのも、根本には孤独の中で対話を求めているからです。

甘美な時間

年賀状にも類似したものを求めているのだと思います。
関わってきた人のことを想って言葉を選ぶ。

年賀状を書くとき、思慕という名の感情が、筆ペンの先からこぼれ落ちるように舞い上がります。
誰かを想う瞬間、自分自身がどれほど救われているかに気づくのです。

この甘美な時間のために、年賀状を書いています。

利他的であろうとすると利己的に

ともすれば、年賀状なんて利己的だと言われかねません。
家に届いてたら「返さなきゃまずいかな」っていう気持ちを抱かせるかもしれないし……

そんなとき『思いがけず利他』という書籍に手が伸びました。

『思いがけず利他』とカフェラテ
積読してた『思いがけず利他』を持ってカフェへ

やはり本書の中にも、贈り物は相手に気を遣わせる可能性があると書いてあります。

「やっぱりそうか……」
僕の心は悲しみに苛まれたのですが、読み進めると考えも変わっていきます。

多様な具体例が出されていますが、本書が指摘するのは利他的であろうとすればするほど利己的な欲望が見えてしまい、利他が遠ざかっていくというパラドックスです。

もう少しだけ深読みすると、別にそれは「贈り物は迷惑だから何もするな」と言っているわけではないと気づきます。

「あなたのため」という雰囲気が全開だと、逆に厚かましくなるということを教えてくれていたのです。

利己的な自覚

ここまで読み解いて、僕は開き直ることを決意しました!笑

そして、年賀状は真に利己的な欲望のもとに書いているものだと捉え直すことにしました。

正直に言います。

めっっちゃキモいんですが、たしかに「この文があの人の心に響くかも」なんて下心を持って書いていた節はありました。

「利他的な行為でもあるぜ感」が前面化していたがゆえに、図々しさが増していた年もあった気もします。本当に恥ずかしい。

思慕という利己

「思慕の念を抱きたい」という利己的な欲望で書く。
「孤独の中で他者と遭遇したい」という自分の願望のために書く。

相手の状況や、受け取ったときにどう感じるか。

もちろんそういったことは考えるけれど、
第一義的には利己的な自身の欲望のために書く。

それが、僕にとっての年賀状なのです。

年賀状と筆ペン
作業の休憩中に少しずつ年賀状を書く!

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