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「能力が低くて良かったこと」を言語化しました

今日は「能力が低くて良かったこと」を言語化していきたいと思います。


まず、僕は、頑張っている人を応援したいという気持ちを、めちゃくちゃ強く持っています。

なので「おまえカス」「やれよ」みたいな煽りっぽい動画にはなっていないと思いますというのを最初に伝えたいです。

で、負け惜しみかもしれないんですけど、僕自身、能力が低かったからこそ手に入れた幸せがあると思うんですよ。

天才じゃなかったから逆に良かったな、と思うことをあえて言葉にすることで、誰かのきらめく1番星、希望の指針になるかもしれないと信じて話していきます!

能力が低くて良かったこと1つ目は:共感力の高さ

これは他の動画でもチラチラ話してるんですけど、「できないことあるある」に頷ける共感力が身に付くと思います。

僕、教育系の大学院に行ってて、大学院のメンバー同士で、先生役をやったり、生徒役をやったりするってのをよくやっていたんですよ。

それやると、普段どんな風に過ごしている人が教え方上手いかっていう、教え方を超えた人間性みたいなものまで見えてくるんですね。

結論、誰が上手いかというと「自信がない人」ですね。
正しくは、根底に自信のなさがあって、努力で這い上がってきた人

正直、大学院生って言っても所詮教員1年目と同じですから、教え方がずば抜けて高いって人はいないんですよ。だけど、生徒役をやったときにすぐわかるんですけど「聴きやすい人」ってのは確実にいるんですよね。

夕飯のカレーの匂いがして公園から帰る気が起きるみたいな感じで、素で質問できそうな香りがしてるって人です。

そういう人って、別に女性・男性という性別とかは関係なくて、やっぱなんか根底では無数にある人間としての至らなさに気づけていて、本音のところではそこに共感してくれそうな風格が備わっているかだと思うんですよ。

それって、普段自信満々ではない人なんですよ。面白いことに。
なのでやっぱり、能力が低いという自覚は「共感力の高さ」を生んでくれると思います!

能力が低くて良かったこと2つ目は:自分には何ができるか必死に探す力がつく

僕ね、高校のサッカー部でベンチ外だったんですよ。

それは確実にサッカー能力の低さが証明されてるわけじゃないですか。
そんな状態で、迎える高校3年生の夏休みの練習とか最悪なわけですよ。

だって、周りが大学の受験勉強してる中、出れる見込みが限りなく低いサッカーを30℃越えの炎天下の中、かろうじて動く干物みたいになりながらやってるんですからね。

正直、モチベとかなかったですよ。

でも、それでも毎日練習はあるし、何か自分の存在意義を見つけないと、人間やっていけないですよね。

そこで、僕が見つけたのは、応援団長雑用団長を買って出ること。
別に、サッカー部の正統であるサッカーの能力向上だって、ぜんぜん捨ててなかったですよ。最後までベンチ入り目指してましたよ。微かに残る燃えカスの根性でね。

でも、同時に組織の中での自分の立ち位置での役割を見出すというか、
ワニワニパニック全部叩けないなら右半分だけは逃さない気持ちというか、
組織という歯車が上手く回るように油さす気持ちというか、
困窮する状況の中でも、自分がどうやっていくかという別様の頭の回し方は身に付いたんじゃないかと思いますね。

自分には何ができるかを探して結果身に付いた力に「後部座席力」ってのもあるんですよね。

僕、運転に自信がなくてですね。友達の集団で、車で出かける、旅行するってなると、ちょっとでも自分より運転できる人がいると、運転席はその人に譲るっていう感じなんですよ。

よく「高速の直線」だけ担当してます。
あれ、テクニックとかじゃなく気合入れてまっすぐ行くだけなので(笑)

そんな僕は助手席としても優秀ではないんですよ。
助手席って、運転したことがある人だけにしかわからない、左からの巻き込みないか見るとか、絶妙なタイミングのナビとかってのがあるじゃないですか。僕は、そういうセンスが皆無なんです。

それでも、自分には何ができるかを探したいじゃないですか。
運転能力なくても。

だから「カドナツ」っていうめちゃいい感じのプレイリスト組んで音楽流して、盛り上がる話してます。口の悪い友達に「おまえは口だけ動かしてればいいから」って言われました。

でも、その通りだと思うし、逆にこのあと運転ができるようになったそのときも、みんなで盛り上がりたい雰囲気のときには、このゲットした口力(くちりょく)を忘れたくないな、活かしたいなって思いますね。

能力が低くて良かったこと3つ目:能力の低さは周りとの比較だと知ったこと

これは勉強だけでやると分かりやすいので、それで話していくと、
中学時代:ちょっと勉強できます
高校時代:その高校の中では下位10位です
大学時代:その大学の中では上位です
大学院時代:やはり下位
なんですよ。偏差値っぽい勉強の話はイヤなんですけど、でもわかりやすいんでね~

で、僕は高校でつくられた大学の価値観で、大学の学歴に関しては劣等感を抱いてて「勉強能力低い」って思ってるんですけど、もっと突き詰めると所属している環境に応じて価値観がつくられているだけですよね。

こないだ平塚の海岸でサーフィンしてガチでドヤ顔してる人いたんですけど、ハワイの高波でも同じことできるかってツッコミそうになりましたもんね。

早稲田大学って一般的にレベルの高い大学だと思うんですが、東京大学に行きたかった友達が渋々早稲田大学に通ってるのを見て、価値観バグりましたもんね。極端な話ですけど、オックスフォード大学に行きたかった人から見た、日本の大学ってどうなるんだって話でもありますもんね。

すみません。僕、学歴の話は嫌いではあるし、いろいろと失礼になる人もいたかと思います。

言いたかったことは「能力低い」ってのは実はそう見ている自分であると同時に、所属する場所次第かもしれないという、客観的な視点を身に付けるきっかけになっているということなんです。

何事も限度はありますけど…

弱小な世界で「俺は凄い」と言い放ち続けている人間より、
自分できないかもって言っている方が、引いて見る力がつくし、僕はそっちの方がまだ良いと思います。

能力が低くて良かったこと4つ目:情熱が身につく

なんでもできちゃうからこそ、人生退屈そうな友達は正直います。
見方によってはただの負け惜しみです。

でも、別のアングルで見れば、能力ない故の情熱が、少なくとも僕にはあります。

与えられた勉強をやるのが苦手な代わりに、自分で問いを見出して勉強することならできるって、大学院時代も今も、教育書を読み続けるような勉強はできてるし、

自分がそうだったからこそ、生きる意味を見失って探している人に寄り添いたいという思いはずっと持っているし、

劣等感が強いからこそ、上手いー下手に関係なくやれることないかなって探して、アルコールインクアートっていう抽象画を描く本当に楽しい、普及させたい趣味に出会えたし、

できなかったからこそ「できない人には寄り添いたいという情熱」が、根深く根深く刻まれた感じが、僕にはするんですよね。そういう基準で、やること選んでいるつもりだし。

能力低い、だからできることないかなって首振って、見つけた自分の立ち位置から、情熱を持ってできることに取り組んでいるのが現状です。

つらいときもあるけど、根底は情熱持って楽しめてるんですよね。

1日かけても全然台本が書けなくて、いま深夜3時半です。マジでいつかはスラスラ書けるようになりたいです。

能力低いなりに、いまやっていることに向き合いつつも、その周りにある「自分がより取り組めること」を発見するってのことも、実は大事な生きる力なんじゃないかって思いますね。

今日は以上です!
ありがとうございました。

↓ Youtubeは語りも付くので、ぜひ見ていただければ幸いです🙇


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