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私にとっての「他者(性)」

 大抵一週間スパンで行う「振り返り」に関連して書いたり書かなかったりしているサタデーナイトフィーバーですが、先ごろ千葉雅也さんの『現代思想入門』_(0)参照_を読んだ関係で、大袈裟に言えば人生を振り返るみたいなことになってしまい、自分の関心事とか、考え方・感じ方の癖みたいなところをバックスクロール。文章としてまとめるのに珍しく時間がかかってしまいました。
 現代思想なんて、私にとって(そして私以外の多くの人にとって)読んでも読まなくても良いものだし、日本的コモンセンスに照らして「夏目漱石ぐらい読んどけよ」はまあOKとしても、「ドゥルーズぐらい読んどけよ」は(そっち方面専攻の学生とかを除き)ちょっとアカン気がする。このへん、「モーツァルトぐらい聴いとこうよ」はOKでも、同じ口調で「シュトックハウゼンぐらい聴いとこうよ」と言ってみた場合も似たようなもので、殴られかねない感じがして余計なお世話だが心配だ。しかし私は、これら「強制収容所じゃないけど立入禁止でもない」領域を大切にしたい。
 ところで、と言うかところがと言うのか、私には今も昔も「二項対立」というワードがピンと来ない。幼少期、何か「ちゃらんぽらん」な感じの大人と遊ぶのは楽しく、反対に「真面目」な感じの大人はつまらないというのがあった。更に、一見ちゃらんぽらんな人の誠実/一見真面目そうな人の怠惰/臆病/強欲などを直観的に察知できたこともあり、真面目/ちゃらんぽらんの価値が社会通念に対して予めひっくり返っていた、というのもあるだろう。
 こんな人間には、フランスの現代思想どころか、それ以前のソシュールも読めないのでは? ソシュールの仕事についてしばしば言われる「二項対立(的整理)」について、私は単にニコイチなんやとしか感じない。字面から発散される意味の臭気に引っ張られただけかも知れないが、パロール/ラング、シニフィアン/シニフィエ etc.それって対立してんの? 相互に補完し合うプラマイゼロのワンセット、あるいはタロットカードのアップライト/リバース(正逆を取らない読み方もありますが)のように同じ性質の異なる顕現といったイメージなら浮かびやすいが、対立となると正直結構難しい。
 対立しているのか、ただのワンセットの片割れなのか、よくわからない「他者」とどう付き合う/付き合わないか。私の言う「他者」またはその性質を指す「他者性」は、必ずしも友好的とは限らず、場合によっては『進撃の巨人』みたいなもんでもあり得る。そして、いくら精緻に展開されてはいても抽象的な言語(私が読んだのは翻訳された日本語ですが)で記された現代思想は理解が難しく。私は、実体をともなう存在としての「他者」を小説の中に見出すことになる_(1)参照_。
 簡単にはコミュニケーションが取れそうにない、自分の思い通りにならない(してはいけない)、しかし、自分に決定的に欠落している何かを完全な状態で備えている。そんな、私の「他者(性)」イメージは、ロドニー・オルフィエス氏の著書に見るHGA(聖守護天使)の定義にぴったり合致していた_(2)参照_。
 ちなみに、(私の場合)別レイヤーでHGAに相当するのは「チャンスオペレーション」_(3)参照_なので、他者(性)≒偶然(性)とも言えそう。
  そんな訳で、なのかそんな経緯とはまったく「切断」されているのか自分ではわからないが、私が取り組んでいるのは、世俗的レイヤーでは「訳わかんない相手とのコミュニケーション」であり、霊性的レイヤーにおいては「無限の外に出る」ことであります。

(0)千葉雅也『現代思想入門』


 「現代思想」とはバクッと20世紀後半のフランスの哲学を指す。いくら立入禁止でない世界とは言え、やはりちょっとしたお約束はあるようだ。このあたり、例えば「現代音楽」を「現代の音楽」と解釈してしまった場合まるっきり話が通じなかったりするのと似ている。
 前書きに『デリダ、ドゥルーズ、フーコー(中略)の三人で現代思想のイメージがつかめる!』とあり、じゃあ、例えば『クセナキス、ケージ、シュトックハウゼンの三人で現代音楽のイメージがつかめる!』なんて入門書もありだろうか、などと一瞬思ったりもしつつ私は、『脱構築とは、二項対立を揺さぶること』という説明を、勝手に自分の関心事である「他者(性)へのアプローチ」と重ねたのかも知れない。
 ともかく、この本をとっかかりに、かつて読もうとして歯が立たなかった部分や、凄く引っかかるのによくわからず何や気持ち悪い部分などに再度アプローチしていきたい。
 初めてアプローチされる方は、どうぞ、びびることなく、馬鹿にすることなく、善き体験を!


(1)開高健『流亡記』

 壁の向こうに巨人がいた。じゃなくて、万里の長城の向こう側に匈奴と呼ばれた(漢民族から見た_※8月11日 訂正します。始皇帝は漢民族ではなかったようだし、私の知るところでは、彼が活躍した時代の中国つーか中華圏は、ことさらに「漢民族」の優位性が強調される状況にはなかったようだし、漢民族中心主義的思想によって政治動向が左右された訳ではありません_)北方騎馬民族即ち遊牧民が住んでいて、主人公含む壁のこっち側の人たちに脅威を与えている。こわくてしょうがない。
 主人公が出した答えは、「もう壁を越えてあっち側の人になっちゃおう」というものだった。わかりやすくはあるが、「壁のこっち側でびくびくしながら生きる/他者と完全に同化する」以外の選択肢を思いつけない点はいかにもプレモダン。
 同短編は、ちくま日本文学全集の『開高健』の巻にも収録されています。


(2)Rodney Orphews_ABRAHADABRA_

 HGA(聖守護天使)=∞-ME

 出版文化の宿命と言うのか、翻訳を通じて「文物」が輸入される場合、どうしても時差が生じるが、20世紀の日本には特に当てはまる現象。聖守護天使についても「高次の自己」などと説明されることが多かったが、どうもこれ、単にある時期「心理学のボキャブラリーで魔術を語る」のが流行ったというだけのことらしい。
 とにかく、この説明で、それまでの気色悪さがすっきり払拭された。
 


(3)パロールとしての「現代音楽」


 まず、ここでのパロールはデリダ的即ち「エクリチュール」に対するそれではなく、ソシュール的即ち「ラング」に対するパロールと理解されたい。
 自分の言葉は社会的に通じるのだろうか……。みたいなところを過剰に気にし過ぎると何も書けないことになるし、第一これは自分宛のメモ書きなんや! と割り切って。
 今、仮にトップ画像の赤い三角形を「接触の三角形」と呼び、青い三角形を「方法の三角形」と呼ぶことにする。ちなみに、上向き/下向きに込めた思いとかは特にない。
 「方法の三角形」下の方、文字が切れてしまっているところは、それぞれ「インプロヴィゼーション」と「チャンスオペレーション」。ジャズと違って現代音楽に「インプロヴィゼーション」はなく_例えばジョン・ケージの曲には、まさに演奏者に「インプロヴィゼーション」を指示しているものも少なくなかったりするので、正確には「フリーインプロヴィゼーション」_大雑把に言って「アルゴリズム」と「チャンスオペレーション」でできている。
 「チャンスオペレーション」は、接触の三角形が成立する別レイヤーの世界において「HGA」に相当する。
 そんな訳で私は、よくフリージャズとジョン・ケージを交互に聴いたりしている。


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