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教育と指導のちがいについて思うこと

先日、いつも髪を切ってもらってる美容室で、後輩の教育が上手く行かなくて、という話になった。

僕は、平日会社員をしている。
多少の年数を積んだので後輩、というか、指導するべき若手が下につくことも増えた。

それとは別に、音楽教室の講師もしている。
そこでは、趣味で習う生徒さんに対して、いろいろな楽器の弾き方だったり、叩き方だったり、音楽の聞き方だったり、ウンチクだったり、いろんなことを教えている。

美容院の人の話を聞きながら、これらが同じ「教育」という言葉で呼ばれることに、ちょっと違和感を覚えた。

個人的には、会社でやってる若手への方が「指導」で、音楽教室の方が「教育」かなとなんとなく感じていた。

少なくとも、音楽教室の内容を「指導」と呼ぶことには抵抗があった。

問題は会社の方。「教育」と呼ぶのは分かる気がするけど、これを一括にしてしまって良いものか。

困ったので辞書を引いてみる。
全然関係ないけど、紙の辞書を引くことなんてすっかり無くなっちゃったなあ。

指導
指導は、特定の事項について、かつ、明確な理由の下に、指導を行う者(指導者)が、指導を受ける者(被指導者)に尊重して取り扱われることを期待してなされる明示的な行為である。なお、指導は、「命令」および「監督」とは異なり、指導を受ける者(被指導者)には、必ずしも指導された内容を実施する直接的な義務はない。かりに「指導にしたがうこと」が、義務として明文化されていたとしても、一般的に「指導にしたがう」というのは、「指導」の過程を尊重するということであり、指導が、「命令」および「監督」の範囲外とされていることにかんがみれば、指導の内容までもが「したがうこと」とはされていないことが多い。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%87%E5%B0%8E

教育
漢語としての「教育」は、『孟子』に「得天下英才、而教育之、三楽也」(天下の英才を得て、而して之を教育するは、三の楽しみなり)とあるのが初めである。
語源・語義からの定義の例を挙げると、「英語: education」や「フランス語: éducation」は、ラテン語: ducere(連れ出す・外に導き出す)という語に由来することから、「教育とは、人の持つ諸能力を引き出すこと」とする。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2#:~:text=%E6%95%99%E8%82%B2%EF%BC%88%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%8F%E3%80%81%E8%8B%B1%E8%AA%9E%3A,%E3%81%AA%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%82

教育の方は多義すぎたので自分が気になったところだけを抜粋。

こうして並べてみると、いろいろな違いが見えてくる。
指導には、かならずしもそれを実施する義務がない、というのは面白いところだ。
文面だけ見ると、完全に一方通行なコミュニケーションに見える。
あくまで指導者が自らの考えや、自身の経験から学んだこと(それ自体が正しいかどうかは別として)などを伝える。
ただし、指導を受ける人はどこまでそれを理解できるだろうか。
理解して、実行することは別。だけど、理解が伴わない実行は辛いものだろう、と思う。これは個人差ありそうだけど。

対する教育は、「結果」に対してのアプローチに見える。
その人の能力を引き出すこと。その人自身が気づかなかったけれども、実は得意だったりするものとか、得意だったものをさらに伸ばしてみたりだとか。
そういったことだろうか。

書いていく中で、「指導」という言葉と「教育」という言葉に時代的な温度感の違い、のようなものも感じる。

目指すものは「教育」なのだろう。
その人自身が持つ強みを活かして、組織(かはわからないけど)や仕事に貢献する。
あるいは、仕事でなくたって趣味として、自分ができることの幅を広げていく。

教育の目的はできるようになること、だと思う。
そのためにどんなサポートができるのか、あるいは教え方ができるのか。

もちろんこちらの都合もある。
来年までには独り立ちしてくれないと困る。
次の仕事は任せたい。

思うに、最初に挙げた会社と教室の「教育」の違いは、そこに期限があり、責任が伴うかどうか、という観点ではないだろうか。
会社の教育はカリキュラムがあり、期限があり、その後自分だけで仕事をこなせるようになっていくことが求められる。

教室の方ではそれは強要されない。
発表会とかライブとか、本番に向けて、という仕込みはあるけど、そもそもそこに出るかどうかは多くの場合自発的な意思によって決定される。

そもそもが「やりたい」「できるようになりたい」から始まっているものだ。

でも、それが仕事に当てはまらないのはなんでだろう。
多くの仕事があり、少なくともその中の一つとして、選んでそこにいるはずだ。

入ったあとに「違ったな」と思うこともあっていいと思う。
自身もブラックに勤めて心身を壊したことがあるので、逃げるべきときは逃げないといけない、と強く思う。

でも。
言われたから。
今までそうだったから。
そういうカリキュラムだから。

規模を大きくするためには、画一的なシステムがどうしても必要だ。
そして、一人ひとりに合わせた教育、ということが言葉以上に難しく、相性もあるのでそう簡単にできないこともわかってはいるけど。

それでも、やっぱりこの違いにとても違和感を感じている自分がいる。
そうありたくない、と。
この不協和音は、まだ鳴り止むまでに時間がかかりそうだ。

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