私なりの依存の定義②
令和6年11月12日(火)
最初の記事で、
「依存先の安全性」と「複数の依存先」ということを意識したいと考えている
と書いたが、今となってはこの時の「依存」という言葉の使い方はちょっと不適切だったかも?と思っている。
安全でやめなくてもいい依存先、となるともうそれは「依存」の定義から外れるかな?と。
ふりかえり…
自分の依存体験を述べたり、依存について論じる前にまずは、一般的な依存という言葉の定義を挙げておけば良かったな、と。
上記の私の文章の中での「依存先」は、
改めて考えてみると、依存先というよりも「心の拠り所」という表現が正しいかなと感じた。
もしくは「共存」という表現が良いのでは?という指摘を下さった方もいた。
(有難いことに、ブログの感想なども頂いており、おかげさまで考えが深まっている✨️)
やめたいとも思っていないし、やめる必要もない「安全な心の拠り所」をたくさん持つことが、依存を防ぐために必要な行動なのかな?と今は思う。
この「やめたいと思っていない」っていうのは、本心から、本音で、の話ね。
強がりで「やめたいとか思ってないし」とかじゃなくて(笑)
そうだ、依存症というのは、病識(病気である自覚)を持ちにくいのも特徴のひとつだった。
よくある依存症の例を挙げると、
アルコールや薬物依存症、摂食障害(食べることへの依存、または食べないことへの依存)、性依存などがあるけど、
どれも適切にやっている分には多くの人が普通に行っている行為なんだよね。
(その適切ってどれくらい?という話でもあるが)
だから、どこまでが「単にその行為が好き過ぎるだけ」で、どこからが「異常性を認められる」のかが分かりにくい。
ここで、「依存」と「依存症」の違いも少し整理してみようかなぁ、と思う。
「依存」と「依存症」の違い
これは、障害と障害とは認められない状態との違いだと私は思っていて、
障害の定義は、一般的に
とのことである。
だから、超ざっくりいうと実害が出てるかどうか?っていうところなんだと思う。
ただ、この実害が明らかに出ていても、原因(依存していること)に結びついていなかったりもするので、そこが難しいところ。
(まさに、過去の私がそれ)
今回はこのあたりで…
お読み頂きありがとうございます✨️