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幼少期0歳〜10歳。奔放な母と繊細な父。恵まれた環境と掛け離れた心の孤独、そして、、父の失踪。
読んでくださりありがとうございます。
茜です。
ここからは
自身の自叙伝を書き記していこうと思います。
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私は母が36歳の時、結婚生活6年目で
待望の子として生まれました。
兄弟姉妹はおらず1人っ子です。
母はずっと子供が欲しかったようで
母の口癖は「あかねはお母さんの宝物」でした。
写真やアルバムもすごく沢山あり
愛されていた、というのは体感としてあります。
ただ記憶にはありませんが
2歳頃に円形脱毛症になったらしく
そして記憶が朧げにある頃には
父と母が日々怒鳴りあって喧嘩をしている、という
印象がとても強いです。
父は日本食の板前で
母は若い頃は銀座でホステス。
2人共お酒が好きで
いつも連れていかれるのは居酒屋や
カウンター席に座るお寿司屋さん。
子供なのに塩辛が大好きな味覚を持ち育ちました。
母はとても社交的で友人も多く
母の友人がやっているスナックに
よく連れていかれました。
当時80年代半ばでカラオケはデュエットが多く
大人の男女が酔っ払いながら絡む姿を
複雑な心境で見ていたり
意味もわかっていないのに見様見真似で
テレサテンさんの「つぐない」や
小林あきこさんの「恋におちて -Fall in love- 」などを
歌うおませな子供でした。
私が小学校に上がるタイミングで
今までの借家を出て一軒家に引っ越しました。
母がデザインしたという三角屋根に煙突が付いて
入り口にはアーチがありとてもモダンでオシャレな家。
私の部屋は2階でバルコニーもついた14畳の広すぎる大きな部屋。
そこにポツンと学習机と
子供には大きすぎるダブルベットが置いてありました。
今思うと、とても贅沢で恵まれ過ぎている環境。
ただ子供心には広い世界にポツンと取り残された
寂しさがより強く深くなる場所でもありました。
父はあまり社交的なタイプではなく
家にはたくさんの本や漫画がある部屋を持っていて
私はそこでこっそり本を読むのが好きでした。
初めて夢中になった漫画は
「魔物語 愛しのベティ」という
魔女とヤクザのファンタジーラブストーリー。
性や本能、欲望の描写もかなり濃く
2人の間に愛娘が産まれてからは
ヤクザから足を洗い様々な職や人間関係を経験し
最後は画家になり、人生とは、、と
壮大な「愛」に繋がるお話で
子供が読む漫画ではないですよね(笑)
けれどこの漫画が
私のアイデンティティに繋がっていると感じています。
今でも電子書籍で読むことが出来ます。
ご興味を持ってくださった方は是非。
父は母がお酒を友人達と飲んでくるのが
あまり好きではないと、私は感じていました。
親戚が集まっても
体も大きく豪快なイメージを持たせて
ガハハと笑っているけれど
本当の心根は隠しているような
なんとかうまく合わせているような
そんな繊細さを私は感じていました。
ある夜、帰りの遅い母のことを私が気にして
父に「お母さん、どこ行ったの?いつ帰ってくるの?」
としつこく聞き続けてしまい
キレた父に外に追い出されたことがあり
その日は雪で、私の大きな泣き声で近所の方に
助けてもらったこともあります。
また違う日は、父が酔っ払って帰ってきて
寝ている私のところに現れて
「500円と1万円どっちが欲しい?欲しい方をやるぞ」
と片手に500円玉、もう片手に1万円札。
すごく怖くて、500円玉を「こっちがいい」と
私は受けとった記憶があります。
そして小学3年生の冬。
父は突然居なくなりました。
居なくなる少し前に
父は自律神経失調症で入院をして
半年ほど家に居ない状況で
母と2人の日々は
父の怒鳴り声やヒステリックな母の声を聞くこともなくなり、それはそれで穏やかな生活だったので
母から「お父さんが居なくなった」と聞いて
寂しさや不安よりもホッとしてしまった私がいました。
「あかねに好きだった、と伝えてくれ」って
夜中に電話が来たの、と母から伝えられたけれども
それもあまり現実味のない
どこか他人事のような感覚に包まれていました。
父は着の身着のままでなにも持たずに居なくなり
約30年ほど、
私が40歳になり裁判所で手続きをするまで
戸籍も住民票もなにも手を付けず
生きているのか亡くなっているのかわかりません。
大人になった私としては
お酒を酌み交わしながら
父からの話や想いをいつか聞きたかったな、と思いますが
それは叶わない想いなのかもしれません。
まだバブルギリギリのタイミングだったおかげで
母は残った大きな家を売り払い
資産に余裕が少しある状況で同じ市内に引っ越し、
私は転校をして、父との思い出の家を出ることになりました。