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しきから聞いた話 183 かなしみの棘

「かなしみの棘」


 犬を見てほしい、と連絡がきたときは、どんな珍しい案件かと、少しわくわくした。

 なにしろ彼女は、野生動物の保護などに関わる獣医師で、犬についても知識は豊富だ。あるいは、生きている犬ではないのか、と考えもしたが、とにかく訪ねてみると、予想に反してとても日常的な、けれど痛ましい話であった。

「未緒は、犬と暮らすのをすごく楽しみにしていたの。でも、初めてにしては、ハードルが高すぎたわ」

 彼女はまず、居間で茶を淹れてくれた。そして、おおまかな事情を話し始めた。

「中学生になったら犬を迎えていいっていうのは、もう、ずっと前からの約束だったの」

 ただし、娘の未緒が、その犬の飼い主として、すべて世話をすること。そういった約束事は大事にできる娘だったから、彼女はこの春から中学生になる未緒を、未緒自身の希望であった、保護犬の譲渡会に連れて行った。

「私の仕事でのお付き合いがある団体の譲渡会だったから、安心していたの。どんな犬であれ、未緒の選んだ子を迎えるつもりではいたのよ。でもね」

 未緒が選んだのは、生後一年ほどの中型犬だった。日本犬とコーギーのミックスだろうか、と思われる外見だという。
 保護されて一ヶ月ほど。実は、譲渡のためではなく、人のいる場所に慣れさせるため、そこにいたのだった。

「山の中に、繋いだ状態で捨てられていたんですって。かなり衰弱して、おびえて、攻撃的だったって」

 二週間ほどで、健康状態はかなり快復した。若いからだろう。
 しかし。

「すごいのよ、人間不信が。少なくとも私は、モモの可愛らしい顔なんて、まだ一度も見たことないわ」

 犬はモモと名付けられたようだ。
 しかしそれでは、よくも引き取ることができたものだ。団体の方からは、反対されなかったのか。

「されたわよ。当然。でも、未緒がもう、絶対この子じゃなきゃイヤだって、泣くわ、わめくわ、たいへんだったのよ。それでも私は、あの子は無理だと思ったし、未緒のこと引きずってでも帰ろうとしたんだけどね、でも」

 団体の代表が、ふと、こんなことを言った。

「そういえば、この子、今日は全然、吠えないですね。それに、さっきからずっと、娘さんのこと見てる。どうしたんだろう。いつもはこんなじゃないのに」

 未緒を見ている、といっても、愛くるしい瞳で見つめている、というのではない。
 上目遣いで、警戒するような、いつでも噛みついてやる、といった顔つきだ。

「私も何でだかわからないけど、気がついたら引き取ってたの。団体の代表に、先生だったらこの子も幸せになれます、なんて言われちゃって、もう、何だかなぁ」

 家に来たモモは、ずっとおとなしくしているという。
 今日で一週間。食事も、排泄も、問題はない。ただ、まだ体には触らせてくれないし、一定の距離まで近付くと、牙をむく。

 事情はわかったから、犬に合わせてくれと言うと、彼女は「様子を見てくるわ」と言って、居間の奥の部屋へ入っていった。
 すぐに戻ってきた彼女が、どうぞと身振りする。

「未緒もいるわ」

 入っていくと、六畳ほどのフローリングの奥、壁際にケージが置かれ、薄茶色の犬がいた。
 伏せの姿勢で、こちらを見上げている。
 確かに、人間不信と攻撃の目だ。

 未緒は扉のすぐ横、床の上に座って、ひざを抱えていた。

「こんにちは」

 顔を上げ、小さな声で挨拶はするが、目は哀しい。
 犬の方へ、すぐに目を戻す。
 犬は何を感じているのだろう。

 いや、しかし。この犬の心は、探るまでのことはない。
 この犬は、この幼い心は、ただ、傷ついているのだ。

 飢餓、痛み、寒さ、恐れ、悲しみ。
 それらが鋭い棘となって、無数に心に突き刺さっている。その棘の痛み、苦しみから逃れようと、心はやむなく、怒りをまとっている。幾重にも幾重にも怒りをまとって、苦しみ、悲しみ、痛みから、自らを守ろうとしている。

 だがもう、怒りを手放す、時節なのだ。

 未緒に、ケージを開けてごらん、と言った。

 犬が、そろり、と動いた。

 未緒。犬はきっと出てくるから。犬がすっかり出てきたら、ゆっくり、優しく、抱きしめてごらん。最初、未緒の腕や体に、棘が刺さるような痛みがあるかもしれない。でも、大丈夫だから。そのまま、抱いてあげなさい。

 未緒はうなずき、犬をじっと見つめた。

 犬がゆっくりと動き始め、未緒に近付いていく。

 大丈夫。この人は大丈夫。
 心の棘は、消える。怒りは、手放せる。
 大丈夫。かなしみは、消えてゆく。

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