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しきから聞いた話 132 杣の木
「杣(そま)の木」
代々に林業を営む杣人の家を、久しぶりに訪れた。
大学まで行った息子が昨年戻ってきて、跡継ぎになると宣言した。もともと家業が好きで、大学も林業について現代的な知見を得るために行ったくらいだから、周囲もこれといって驚くことも、妙に喜ぶこともしなかった。
それでも父親は、内心よほど嬉しかったのだろう。息子を自慢したくて仕方ないのかもしれない。年が明け、年始の挨拶にうかがいたいと連絡したところ、せっかくだから息子と一緒に、山へ行こうと誘われた。実は、息子からも別の相談をうけていたから、こちらも都合が良かった。
「正月休みもいいけど、もういい加減、体がなまって腰が痛いよ」
訪ねて行くと父親は、冬でも真っ黒に日焼けしている顔に白い歯を見せて、にかにかと笑った。
「あんたのことだから、うちより山の神様へ挨拶だろ」
こちらが頼む前から、先に立って歩き始めた。
庭先に停めた軽トラックの運転席に乗り込み、隣りに乗れと手招きする。
「達夫は先に行ってる。あの、奥の杉な。なんだか気になるって、何だろ。俺はよくわからんなぁ」
車が向かったのは、親子が育てている杣木の山、つまり、杣山だ。
材木として使うために植えられる木を杣木というが、これは人が手をかけていかなければ、良質の材として育たない。田も畑も、人が植え、手をかけて育てるからこそ、豊かな実りをもたらす。材木とて、違いは無い。
親子はこの山で、杉を育てている。
「あの、手前のを伐り出す前に、奥の杉、あんたに見て欲しいって」
口ぶりからすると父親は、仕事についてもうずいぶん、息子の達夫に任せているようだ。
軽トラックが、林道の脇に停まる。
車を降りると、目の前の斜面には、親子が丹精した杉達が、ぴしりと空に向けて、真っ直ぐに林立していた。
この杉は何年くらいなの、と尋ねると、父親は
「50年だね」
と答えて、胸をそらした。
植えたのは祖父か、曾祖父か。この木立ちと、杣人としての血が、彼の誇りなのだ。
「あぁ、すみません、あけましておめでとうございます」
大きな声が上から降ってくる。見上げると、達夫が走っていた。
こちらは歩いて上がっていくと、達夫は肩を並べ、斜面の東の端を指差した。
「さっそくですけど、いいですか。こないだお話しした一本杉、あの上なんです」
一本杉。話を聞いたのは、ひと月ほど前か。
杣木の斜面から少し離れた、丘のようなところに、ぽつんと一本だけ、杉がある。どういうわけだかわからないが、4、50年くらい前に誰かが、苗を植えたもののようだ。
強い風の通り道である丘に育ったその杉は、杣木としては使えない。その理由を父親は、こんなふうに教えてくれた。
「有名な宮大工の棟梁が言ってた。強い風にさらされて、たった一本で立ち続けた木は、癖が強すぎるって。そうだと思う。俺らは経験で、やっぱりそう思う。材としては、良くない」
確かに材としては良くないかもしれない。しかし達夫は、その木を神木のように感じると言った。
「山を守ってくれてるっていうか、何か、ほかの木と違うように感じるんです。もしかして、注連縄とか、何かした方がいいのかなと思って。それで、見てほしくて」
達夫の後について登っていくと、やがて視界が開けた。
稜線の一部が、空に向けて丸く盛り上がり、丘のようになっている。そして、そのほぼ中央に、一本杉が立っていた。
真っ直ぐではない。いびつにねじれ、右に曲がり、枝は不揃いで、櫛の歯が欠けたようになっている。
車から降りてすぐに見た、整然とした木立ちにくらべると、みすぼらしく、ひねくれてさえ見える。しかし。
「どうですか」
達夫が、声をひそめるようにしてそう言ったとき、一本杉のこずえが、ざわざわと動いた。
ああ。
達夫がこの一本杉を、気にかけるわけがわかった。
一本だけ。ここにこうして、風に吹き倒されそうになりながら、ねじれて立つ。
どうしてだろう。
はじめは、そんな思いつきだけだったかもしれない。
気にとめた、その想いが、杉に伝わる。
杉も、達夫を気にとめる。
そうして、互いの心が繋がったのだ。
一本杉の心は、見た目とは正反対に真っ直ぐで、清らかで、優しい。
達夫。この杉は、きみのお祖父さんが植えたようだよ。でも、特別な思いつきではない。むしろ、逆だ。この杉は、良い苗ではなかった。でも、捨てるのもかわいそうだと、ここに植えた。杉は、お祖父さんに感謝しているみたいだ。
「それじゃ、この杉は、」
いや、特別なものじゃない。注連縄もいらない。
ただ、きみはこの杣の山、杣の木達と、いっしょにいればいいのだ。
人の手が入らなければ荒れてしまう杣山を、きみが守ってやればいいのだ。
お互いを想い、お互いを守ればいい。それだけでいい。
この一本杉は、神の木ではないよ。
ただ、杣そのものの木だ。杣人である、きみの木だ。
達夫は、ぱちぱちとまばたきをしてから目を上げて、何も言わず、一本杉のいただきをじっと見つめていた。