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自意識を捨て、心を抱きしめるということ
本棚から引っ張り出した一冊。読んでみた備忘録。
嫌な思い込みを思い込んだままにしておきたくはない。(中略)要するにふたつしかない。理想のアファメーションと体験カタログだ。しかしすでに見たように、どちらもうまくいかない。いやまな思い込みを強化するだけだ。(中略)「どうやって嫌な思い込みを消すか」ではなく、「どうやって生きたい人生を作り出すか」にシフトするのだ。
「自意識」という言葉を使う場面を考えてみると、「自意識過剰」という言葉でよく使われることに気づきます。これはどういう現象かと考えてみると、「周囲の注目が自分に向いていると、勘違いする/思いすぎること」と言い換えられそうですよね。多くの場合、実際はそうじゃないはずなのに、自分にベクトルが向いて、想像以上に自分自身に注目してしまうということ。
僕はアファメーションとして「毎日良かったこと日記」をつけています。振り返った時に「なんだかんだカラフルな生活をしているじゃないか」と思えるし、そもそも楽しい。ですが、これの反作用として「自分はそもそもカラフルな生活を送れていない」という思考を強化してしまう、というのが本書の主張です。幸せな人は自己啓発本を読まないと言われるのと同じですね。
「幸福とは、不幸を見ない状態である」という言葉に出会ったことがあります。そもそも「不幸を見ないようにしている」という時点で自意識が生まれていますよね。幸福を全力で感じられている状態=結果として、不幸を見ていない状態が正しくて、不幸を見ないからといって幸福かというと違うのかもしれません。これは後述するポジティブ思考なだけなのかも。
ポジティブ思考の学生とそうでない学生ではどんな違いが生じるかについて研究した。わかってきたのは、「ポジティブ思考者」は就職活動の量が少なく、得られた内定も少なく、結果的に収入も少ないという事実だった。(中略)大事なのは、自分がどんな人生をつくりだしたいかだ。(中略)この新しい習慣によって、自分の根底にある構造が変化する。
ポジティブ思考でいると、「自分ならできる!」という考えが強化されて行動の量が変わるよね、という論理もあると思うんです。なので、就職活動の量が少なかったというのはポジティブによる「驕り」が原因ではないかと思ったのです。つまり、楽観的・肯定的であることと、謙虚・傲慢であることとは別の要素な気がするんですよね。
楽観には聡明さが必要なのかもしれません。そして、悲観になっても聡明さを持っていれば現実をきっちり見ることができる。つまり、実は楽観的か悲観的かというのは関係なくて、論理や聡明さを使って現実を見よ、という話な気な気がします。感情やアップダウンに巻き込まれないようにしながら、自分を等身大で見て、行動を積み重ねる、ということなのかも。
ビデオの中で、やがてレディ・ガガは嫌な思い込みを抱えたままステージに立ち、度肝を抜くパフォーマンスで超満員の慣習を興奮の渦に巻き込んだ。結局、素晴らしいステージを作り出すのに、彼女が自分をどう思っていたかは何の影響も及ぼさなかったのだ。(中略)本書で探究する重点のひとつは、嫌な思い込みを含めて、自分自身の思い込みを徹底的に知ることだ。
これこそまさに「プロフェッショナリズム」と呼ばれるものでしょう。どんなにアップダウンがあっても、一定の品質以上の成果を出す、というプロ意識を感じます。これは先ほどの話とは一つ異なり、「行動量」ではなく「行動の品質」に関する言及だと捉えることができそうです。結局、量も品質も、論理や聡明さを持ってして作り出していくものだよ、ということ。
嫌な思い込みがあって、それを払拭しようとしているという行為は、「嫌な思い込み」に縛られている状態と言えそうです。これって以前書いた、「退屈の第一形式」という状態かもしれません。行動がとらわれている状態。この解決策は、そこから抜け出し完全に自由な状態になること。そして、とらわれない時間を使って気晴らしに勤しむ、ということ。
自分がどれだけきちんとやっているかを自己評価する悪癖を持つ人が多い。(中略)自分の存在を正当化するニーズには、一定の前提がある。まず、自分そのものには価値がない、という前提だ。私たちの社会は投資対効果メンタリティにすっかり染まっている。(中略)子どもたちを音楽教室やディズニーランド、リトルリーグなどに連れて行く親は、遠い将来の見返りのためにそうしているわけではないだろう。
ここを読んで、もしかすると思わず自己評価をしてしまう人は、自分に対して「交換の論理」を提示しているのかもしれないな、と考えました。つまり、お前は存在しているからには、価値があるんだろうな?と突きつけている状態。この論理に基けば、仕事でもなんでも、価値や成果物を出していないと、その人の人間の価値はないよ、ということ結論になってしまいます。
子どもたちの例を見るとわかりやすいですが、いやいやとにかくあなたが喜びそうなこと・価値がありそうなことやりましょうよ。だって嬉しいでしょう、喜ぶでしょう、という感覚を、自分に対して持ちなさいということなのかも。なのかも。自分を愛する、ということを言い換えるとこういうことなのかも。
自分の人生は自分自身ではなく、自分が作り出すものの一つだということが理解できた時、新たな可能性が姿を表す。画家は自分の絵画ではない。だから画家は作品に調整を加えたり、違う技法を用いたり、描き直したり、絵から学んだりできる。(中略)「劇場で起こること一切を感情的に受け取らないこと」。
「劇場で起こること」、という比喩は重要かもしれませんね。僕たちは劇を作るプロデューサーである、という考え方。こうなると、「人生はどうなるとハッピーなのか」「豊かなストーリーは?」という考え方になれるでしょう。逆に、劇の内容に感情移入しすぎるプロデューサーは、全体を見渡した良い劇は作れなそうですよね。
本書の途中、「なぜ自意識が膨らむのか」という話に触れていました。幼い時に鏡を見て自分だとわからないように、自意識を習得することで人間は「自分という存在」を認識します。社会に揉まれるにつれ、自分に付与される「学歴」「性格」「経験」を、自意識の中に同一視してしまいます。「自分という存在」ではなく、そこにつくタグが大事だと勘違いをし始めます。
何より役立つのは「緊張構造」である。(中略)緊張構造はふたつの要素から成り立つ。一つは作り出したいビジョンを明確に描くこと。もうひとつはビジョンに対する現在の居場所を明確に知ること。(中略)緊張構造によって、頭はふだんの働きとは別次元の力を発揮して動き出すのだ。(中略)しかし、使えないこともある。競合する別の構造がある時がそうだ。
ここで言うビジョンとは、目指すベクトルの目的地を示していそうです。ただ、先述した通り、それは「自分についているタグ」ではないビジョンである必要がありそうです。例えば「こういう役職で、これができて、あれができて」みたいな「タグ」にビジョンを置くと、間違えた道に行った瞬間に心が折れてしまいます。この自意識はビジョンを描く上で不要なのでしょう。
目指すべきビジョンへ真っ直ぐに向かうのを邪魔する別の構造、それが多くの場合は自意識だよね、というのが本書の主張です。こう書いてふと思い出すのは、良い環境に良すぎると「自分にはこんな資格はない」とガタガタに緊張してしまうことがありました。こういう自意識が目的達成を邪魔する、ということなのでしょう。
なぜ、自分を操作しようとするのか。それは、放っておくとろくなことをしないと思っているからだ。自意識の問題を抱えている人は、もともと自分はきちんと行動しないと思っている。(中略)「解決に加わっていないのなら、問題に加わっているということだ。」(中略)「自分のことをどう思うかは、作り出すプロセスにおいて全く何の関係もない」。
僕自身、「今年の目標」「3月にやること」みたいな習慣化リストを作っています。毎月・毎年こなすお題を作っておくと、行動のきっかけになり、新しい発見が促されるからです。これを「自分を操作」と捉えるかどうかは、捉え方次第なのかもしれませんね。「自分を律する」ではなく、「将来や今を楽しむために」という目的意識でやっていくのがいいのかも。
こう書きながら、「過去にとらわれず、未来志向であれ」という話なのかもしれません。自分のことをどう思うか=過去にとらわれる、あるいは未来志向である=自分を含めた誰かのための準備をする、という考え方なのかもしれません。こう考えると、アファメーションのような「過去からポジティブな思い出を拾う」という行為が、若干的外れだというのも納得します。
たいていの人は自分自身の力を信頼していないため、自分を力から切り離している。(中略)善良であろうとし、思いやりを持ち、人を守ろうとする、人々の真っ当な価値観である。しかし、自分の持つ力から自分を切り離してしまったら、肝心の自分の人生を作り出す力を削ってしまう。(中略)自分と共にいられるためには、自分のダークサイドに親しむ必要がある。
一方でコンプレックスなどの「ダークサイド」を肯定しているのも面白いですね。そこからエネルギーが生まれてくる。世の中を見渡してみると、エネルギーに溢れる人というのは、自分の中の負な感情をうまく行動に転化できている人が多いような実感はあります。
とある恋愛工学の本で、「自分の心の穴を埋めるために他人を使うと、不幸な恋愛になる」という主張を目にしました。心の穴はそのままでいい、むしろその不完全な方が人間らしい。そのような境地に達すること、つまり「完全を目指すのを諦めること」が、成熟することなのかも知れませんね。
人間には各々「心の形」があります。それの輪郭を理解することが自己分析と呼ばれる行為で、これで初めて心を撫でたり触ったりすることができるのかもしれません。ただ、それと同時に「不完全さ」という輪郭も明らかになる。そこに捉われず、直そうとせず、心が躍るようなことを目指していく。それがつまり、真に心を抱きしめる、という行為なのかもしれませんね。
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