命をいただく、活字版
今日は大学で、牛を解体した
4時間ほど立ちっぱなしで1頭の牛を約30人で囲む
内容は、動物愛護の観点からも口外してはいけないという暗黙の了解があるので割愛するが、牛は淘汰される予定の個体を農家さんから譲り受け学生の勉強に使わせてもらっている
よく、「命をいただく」というが、残念ながら今日の私は動物への感謝よりも立ちっぱなしによる脚の疲労が先を越してしまい、帰りたい一心で作業をしてしまった
そんな中、体の中心に近い大きな臓器に触れると、まだほんのり温かくて、ついさっきまで生きていたことがわかる
なんとも言えない怖さ(海洋恐怖症に似ている)を感じた
私は海に対して圧倒的な無力感を感じ恐ろしく思う
自分の小ささを痛感し、ブラックホールに吸い込まれるような感覚だ
南の方の海は透き通っていて浅瀬くらいなら強気でバシャバシャできるが、北海道の海なんて覗き込むことも遠慮したい
しかし海とは違うのに、なぜ生温かい臓器に触れてこのような恐怖を覚えたんだろう
自分より何倍も大きなこの生き物が目の前で横たわる姿に、無力感を感じたのかもしれない
とにかく、ネガティブな意味ではない「どうせ自分なんて」を感じた
自分なんて、たまたま人間に生まれてちょっと複雑な感情を与えられただけで、何も優れていないし、無力で小さな存在だと思った
言葉を持ったせいで言葉じゃなきゃ伝えられないことも増えたし、感情が複雑なせいで、その言葉すら真っ直ぐに受け取れない
とても面倒で鬱陶しいのが人間なのだ
とはいえ、その言葉の面倒さを面白みと捉えて、その無駄を楽しむことで文学が成り立っているし、極力面倒さを省いて事実だけを伝えたい人が論文を書く(論文で無駄な議論が無いわけでもないが)
地球の裏側まで言葉を届けられる時代が来た
さらに文字は消費期限が長い
リアルタイムじゃなくても他人に伝達できるし、繰り返し噛み締められる
人間はなにも高等な生き物なのではなく複雑な生き物で、場合によっては他の動物よりも退化しているようなところが多々あって、そんなところが可愛らしいと結論付けよう
牛の解体を通して、人間の小ささに気付き、もっと無駄を楽しみたいと感じた1日だった
そんなことよりも、獣医学的な気付きや学びを得るべきだったと、人間らしい後悔をしている
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