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「疎外」は語りうるか?――道徳規範としてのマルクス疎外論:小エッセイ

[2025/02/16.③の加筆修正]
[2025/02/19.②の加筆]

①対象化と疎外――はじめに

 自らが作ったものが、自らに対し疎遠なものとして敵対するようになることは「疎外」と呼ばれる。たとえそれが「私」の意図的行為とは縁遠い人為的な産物――たとえば、原子爆弾など――であったとしても、人間の「労働」によって「対象化」されたものが人間の生活を脅かし、生活条件を規制しているという意味で「疎外」に当たる。
 本題に入る前に、少しばかり本論の主題となる「疎外」の概念について説明したい。
 ヘーゲルは「疎外」という語を、彼自身の哲学における自然と精神という二元論を克服する要石として用いている。自然と精神は別々の原理というわけではなく、ロゴスという一つの原理が自己自身を展開する二つの場にすぎない。次の表現のように「疎外」という語には自然に対する精神の優位性というヘーゲルの哲学が反映されている。

自然とは、精神が自己の内面を外に現すことによって自分自身と離れた、疎外された精神である。つまり自然は、精神に対向して(ent)、精神に対して疎遠に(fremd)なった(Entfremdung)精神である。だから疎外とは自己が自己自身に対して疎遠になることを意味する。

田上孝一:第六章「疎外」『現代規範理論』所収(105p)

 こうした「疎外」の思想を世間に広めたヘーゲルは、ところで「労働」の本質をどう捉えていたのだろうか。
 彼によると「労働」は、人間が自己の本質を「対象化」することであると同時に、人間が自己の本質を発現させ、そうすることで自己の外で自己と対立するものとしてその対象を「外化」することであると考えていた。

それは対象の側からすれば自己の対象性から脱するという意味で、「脱対象化」あるいは「対象性離脱」の過程であるし、対象を据定する人間の側からすれば対象から対象性を奪って行くという意味で「対象性剥奪」の過程でもあるだろう。

田上孝一:第六章「疎外」『現代規範理論』所収(107p)

 しかし、ヘーゲルは、こうした「対象化一般」を資本主義社会が労働者を窮乏化させ、非人間化させるという意味での「疎外」と同一視してしまう。その隙を突いて「疎外」を「対象化一般」からはっきりと区別して「疎外された労働」という概念を提示した批判者が若きマルクスであった。
 彼によれば、資本主義社会が生む非人間的な「疎外された労働」は、歴史の偶発事が積み重なった結果として、たまたま人間的生活へと(ブルジョワ的現象形態として)規定されているにすぎず、人間的生活がその本質としてすべからく負わなければならない宿命ではない。それゆえ、マルクスは「止揚」という弁証法のタームを用いて「疎外は(対象的に)止揚されなければならない」として「疎外」廃絶の主張(以下「疎外の止揚」)を規範的に行っている。ここで弁証法に立ち入って論じることは省略するが、マルクスのいう「疎外された労働」の「止揚」とは、具体的には、社会主義――労働者が全ての生産過程、生産手段をコントロールし、自主管理社会を樹立する――という〈理想〉の実現である。
 田上孝一による解説を拙く要約することを許してもらえれば、ヘーゲルにおいて「疎外」の「止揚」とは、予定調和的に楽観視された労働の積極面と消極面の「止揚」であり、いわば必ずや果たされる福音のごとき「御宣託」であった。それに対し、後年のマルクスの唯物弁証法における「止揚」は、なけなしの労働を売り払って、絶対的に窮乏化させられる労働者の悲惨を看過しはしなかったために、以下のような労働の"現実性さえ喪う"消極面を対置しえた。

労働の実現は労働者が餓死するまでに現実を奪われる現実性剥奪として現れる。対象化は、労働者の生存に最も必要な対象のみならず、労働の対象も奪われるような激しい対象の喪失として現れる。

カール・マルクス『経済学・哲学草稿』

 これは「対象化の疎外」(田上:2004)と呼ばれる。ヘーゲルからフォイエルバッハによる批判を経て、マルクスに至る間には様々な哲学的異同や時代的制約はあったものの、産業革命以降のデスペレートな絶対的窮乏化の席巻を受けた、既存社会への"現状変更"の意図を汲んだ概念の一つとして「疎外」が結実したことには違いない。
 マルクスは「疎外」を労働者の単なる主観的・感覚的事実――たとえばアダム・スミスが語る「労苦」のようなもの――ではなく、あくまで労働者を取り巻く客観的事実として扱っている一方で、先に述べたように「止揚されるべきもの」として未来に向かって構成される〈あって然るべき理念〉としても扱っている。
 以上のように考えると「疎外」という概念には「事実として記述可能な側面」(事実概念)と「事実としての記述を拒む規範的な側面」(規範概念)という二つの側面があるということである。

②疎外論規範――主題

 しかし、とりわけマルクス疎外論の場合に「疎外」を語るということは、現世救済的な「疎外の止揚」の〈理念〉を語ることと同義である。こうした「疎外」という語に〈あって然るべき理念〉としての「止揚」があらかじめ内包されているという規範的立場を、私は疎外論規範と呼びたい。
 本論の目的は、マルクスの文献学上の解釈の正否や社会主義・共産主義などの理想的な政体の是非を論じることではなく、この疎外論規範を道徳規範一般の問題として考えることである。
 事実概念と規範概念を峻別する観点からすれば、「疎外」という語のなかに「疎外の止揚」という〈あって然るべき理念〉があらかじめ内包されていると前提する疎外論規範は、かなり不可解なものである。たとえば「約束」という語のなかに「約束を守ること」という〈あって然るべき理念〉があらかじめ内包されているとすれば、その「約束を守る約束」はいつしたことになるのか?という疑問が湧くように「我々はいつ「疎外」され、いつそれが「止揚」されるべきという〈理念〉に同意したのか?」ということである。
 しかし、疎外論規範を道徳規範一般の問題として考えるならば、必ずしも理解不能とまでは言えない。
 プロット③と④は、事実概念、規範概念としての「疎外」の「誤謬可能性」を考えることで、疎外論規範が道徳規範の問題である、という論拠を裏付けようとしている。
 ⑤では、他行為可能性の議論を疎外論と接続する。そこでは永井均を参照しつつ、道徳規範の特殊性が疎外論規範と共通することを見ながら、道徳規範が出来させるパラドキシカルな事態を示そう。
 最後に〈規範と状況の不一致〉から「疎外」を語る疎外論の観点が、自己利益に反してでも〈あって然るべき理念〉に基づいて現状変更を試みる者と、純粋に「賢慮(prudence)」から現状を自己利益と結びついた理想的な状況へと変更しようとする者とを、等しく「疎外」されている者として同一視してしまう難点を指摘して、本論を終える。

 本論に移る前に「道徳規範とはどういう規範か」という定義をここで【1】、【2】に分けて簡単に述べておくことが本論の理解の助けになるであろう。そのためには「道徳規範は何を主題化せざるをえないか」を説明することが近道である。世間一般における規範の在り方はさまざまだが、あらゆる規範に共通する機能目的は「正しい」ことと「すべき」ことが直結し、それとして意識されることなしに融合しているということである。永井均によれば、あらゆる規範は、それが「正しい」以外に考えられる「他の可能性」は決して主題化されないこと=盲目であることによって「何かを行う」ことが可能になっており(たとえば言語規範と計算規範)、いわば「規範意識の消失点」(永井:1990)が自体的に備わっている。しかし、道徳規範が規範として効力を持つには、【1】その逆に「他の可能性」という外在的な観点を顕在化させ、またそれを道徳規範内部における内在的な観点としても主題化せざるをえない。なぜなら、そうしなければ、【2】自己利益と自己幸福の追求を「規制」するという道徳規範の主要機能の効力を発揮できないためである。以上、本論では【1】と【2】を、道徳規範の規範性の最小限の定義とする。この定義には本論の最後に立ち戻って哲学的意味を与える。

③「疎外」の事実は誤謬を含みうるか

 さて、「疎外」の概念について考えてみたいことがある。
 「労働者は疎外されている」という言明(以下、疎外論表明)は、「私の歯が痛い」という言明と同様に"誤りえない"ものだろうか。永井均によると「私の歯が痛い」という言明が誤りえないのは「現実に痛いと感じられるのは、この私しかいない」という「独我論的事実」と結びついているからである。「私の歯」と「他人の歯」は誤認できても「私の歯の痛み」は「他人の歯の痛み」と誤認することはありえない。したがって「歯の痛み」によっては「自他」を誤認しえないゆえに「私の歯が痛い」という言明は"誤りえない"ものであると言うことができる。このことは他人による論証を拒んでいる。
 他方で、疎外論表明において、その中心概念である「疎外」は「自己がつくったものが自己自身に対して、何か異質な他者性を持つものであるかのように振る舞う」という仕方で「自他」の区別に関係している。つまり「自己がつくったもの」が自己自身に「他者」である「かのように振る舞う」と言われても「自分」と「他者」の区別は依然として実在しており、物質的な所有関係が前提された上で「自他」の区別がなされているのだから、疎外論表明は「自他」を"取り違えうるもの"として言表されている――「疎外された労働者」は、そうした形で「自分」と「他者」を"所有物"を媒介として誤認しうる――ということである。しかし、それは、ヘーゲルが「対象化」と「疎外」を取り違えたように、いわば"ヨコの関係"から捉えた「疎外」の概念が含みうる誤謬であって、反対に"タテの関係"における「疎外」の概念は、どのような誤謬を含みうるだろうか。それは、こう表現できるかもしれない。つまり、前述した"ヨコの関係"すなわち「自ー他」の区別において、ではなく、むしろ"タテの関係"すなわち「主ー客」の区別において「転倒」されている何事か――たとえば、主体として獲得されたはずの労働生産物(客体)が生産者に対して敵対的に対向する(獲得が喪失として現れる)という「主客転倒」――があり、それが疎外論規範において問題になっている当の「取り違え」の可能性であるとすれば、理論認識的には「主ー客」を取り違えないように注意せねばならないとはいえ、しかし、まさに「労働」という行為実践的な領域においてはその「取り違え」が「不可避」な場合があるということ(それが「真理」として現れるということ)こそが疎外論の問題なのである、と。疎外論規範は、その「主客転倒」への「否定」から出発している。
 たしかに、マルクスの疎外論表明においては「疎外」の事実的言明が(「主客転倒」という)否定的価値判断をあらかじめ内包させる形で言表されてはいる。しかし、そうした否定的価値判断は、その脱却(「疎外の止揚」)の「推奨」も含めて"誤りうる"か?――と、さらに問うならば、その答えは(後の章で詳しく説明するが、それが価値判断と呼ばれるかぎりは)必ずやYESでなければならないはずである。
 やや先走りすぎた。ひとまず、ここでは「私の歯が痛い」という内的事実への言明は誤りえないが、「労働者は疎外されている」という疎外論表明は"誤りうる"外的事実(評価語を含む)として言明できるものであると区別しておこう。
 しかし、二つの言明を統合する別の解釈がありうる。こちらの解釈のほうがむしろ根源的かもしれない。というのも、先の「独我論的事実」をもじって「現実に疎外されていると"感じられる"のは、この"私"しかいない」と言い換えてみるとどうだろうか。ここから分かることは、客観的事実であった「疎外」は、客観的事実でないこともできるということである。どういうことか。たとえば、私の「歯の痛さ」の客観的原因が"なかった"としても、私は「歯の痛み」を感じることができる、という「多次元意味論」的な水準(永井均『なぜ意識は実在しないのか』の語彙で言えば、「第一次内包」から「第0次内包」への「第一の逆襲」である)が可能であるという見地に立てば、同じように「疎外」も、たとえその客観的原因が"なかった"としても――いわゆる「疎外感」のような――何ごとかとして主張することができる、というわけである。しかし「疎外」は「痛み」のような内的体験のうちに位置づけられる感覚語ではないので、それは「第0次内包」の誤用であり「不可能」である、という反論があるかもしれない。永井の「多次元意味論」の議論には長大な蓄積があるため立ち入って説明することは別稿に譲るが、ここでは、それは「可能」であると仮定しておこう(追記:ここで私は「第0次内包」を「疎外」の事実に適用しようとしているが、ここは、そうではなくむしろ「無内包」を適用するべきだったかもしれない。つまり「痛み」の場合には単純な事象内容が与えられているが「私は疎外されている」という事実は、現実に対して付け加えられるいかなる内容的特徴もないのである、と。だが、こうした「無内包」な「疎外」に否定的価値を与えたのが資本主義社会であるのか…?と問われれば、私はまだ説明の糸口を掴めていない[2025/02/13])。
 まとめると、本論における「疎外」の問題は、二重の意味で、客観的事実(他人による論証)ではないことができるということになる。
 第一に、この「私」という一人称特権を用いて「現実に疎外されていると"感じられる"のは、"私"だけである」という「疎外感」を自己確証し、それにより他人による論証があらかじめ塞がれる観点(いわば「独我論的疎外」の事実)である。
 第二に、「疎外」という否定的価値を含んだ語には「疎外の止揚」という〈あって然るべき理念〉があらかじめ内包されており、その「べき」の内実は論証の対象になる必要がない。たとえば「日本の国会議事堂の地下では、猫の軍団が怪しげな電波を全国へと発信しており、人間たちを操っている」という検証不可能なことに訴えて「疎外を止揚し、猫の軍団に疎外された人間たちを解放しなければならない」という主張を規範的に展開することも疎外論規範の観点からすれば可能ではある(だとしても「べき」の内実が必ずしも論証の対象に"なりえない"というわけではないことに留意せよ)。この第二の観点からすれば、その規範自身が内在的な観点と外在的な観点を同時に持っているという意味で、疎外論規範は、すぐれて道徳規範の問題であると言ってもいいのである。
 本論の主題に関わるのは、この第二の観点であるから、そちらに視野を移そう。

④「疎外」の規範は誤謬を含みうるか

 ユーリ・ダヴィドフは、マルクスによる「疎外」の分析について、それが「正常な」労働についての「すでに形成された理想」が念頭にあってこそ可能になっていると指摘する。彼によるとマルクス疎外論は「疎外されざる」労働の理想像あるいは「疎外の止揚」という概念を、十分な論証を経ずに前提しており、それゆえ「論理循環」に陥っている。

しかしながら、問題の本質はまさに、「疎外されていない」労働の理想像を、具体的な個人たち相互の実在的な諸関係の分析に先立って置くよりまえに、それら具体的個人たち相互の実在的諸関係から「労働の疎外」という事実をみちびき出すことに存した。

ユーリ・ダヴィドフ『自由と疎外』(1967:藤野渉訳)

 この種の読解に対して田上孝一は、マルクスのいう「疎外の止揚」は、事実概念ではなく規範概念であるから、それは十分な論証を経た事実として提示する必要がないのであって、マルクスは「未来において実現されるべき人間」としての〈あって然るべき理念〉を提示しているだけである、と反論している(田上:2004)。田上がダヴィドフのような「疎外」の規範的側面を切り捨てる解釈を批判して、疎外論を現代的な規範理論として再生しようとするその学問的な意義は理解できるが、語としての「疎外」は、記述可能な事実概念である場合もあるし、他者の評価に晒されうる規範概念である場合もある、というただそれだけのことでしかない。そこに対立しているものは何もないのである(もちろん、純粋に文献学的な解釈と特定のイデオロギーを前提した解釈とのあいだで対立はありうるが、疎外論規範を道徳規範一般の問題として考える本論が立ち入るところではないし、哲学的にはどっちでもよい)。
 以上のことを踏まえると、疎外論規範の提示する〈あって然るべき理念〉も、事実として記述可能な場合と同じように、その推奨には根本から"誤り"を含んでいる可能性がなければならない(そうでなければ、疎外論規範は「無謬の主体」に固定されているということになる)。
 本論へと話を戻せば、そもそも、誤りうるかどうかという他の可能的観点を疎外論に持ち込むことそれ自体が、疎外論規範を、まさに道徳規範として自覚させることである。とはいえ、それは当然ながら「私」や私たちがそれに積極的に従うべき根拠を何ら与えるものではないことは言うまでもない。つまり、田上が述べるマルクスにおける「未来において実現されるべき人間」という〈あって然るべき理念〉も、単なる道徳規範的なテロスであるにすぎないということである。
 したがって、「疎外」という語に疎外論表明の〈あって然るべき理念〉があらかじめ内包されていると前提する疎外論規範には、明白な無理がある。なぜなら「疎外の止揚」が有意味であることの根拠(評価基準)が「疎外」という語の内部にしかないとすれば、マルクス疎外論は本質的に語りえないものになるからである。もちろん「疎外されていることは悪い、ゆえに、疎外は止揚されるべきである」と記述された価値判断には「疎外」の〈悪さ〉への非難と「止揚すべし」という推奨が含まれている。しかし、社会的に見て非難されるべきことを指した「意見」として言われる〈悪さ〉と、この「私」が「私」自身に対し〈否定すべきこと〉を指して言われる「意味」としての〈悪さ〉の違いを認識し、その「意見」と「意味」とを切り離して区別できることこそが道徳的価値の本質であるとするなら、疎外論規範が「疎外」という概念の中に、その二つの〈悪さ〉をまるごと内包させて「社会的な非難」(意見)と「私の私自身に対する推奨」(意味)は"切り離しえない"と語ることは、まったく不可解なことでしかない。なぜなら「疎外」が道徳的に〈悪い〉とすれば、両者は"切り離しうる"(のでなければならない)からである。
 しかし、こうした「語りえなさ」に関する問題は、むしろ「疎外論規範の内部には〈あって然るべき理念〉が有意味であることの根拠(評価基準)が少なくとも一つはある」と肯定形で考えてみるべきだったかもしれない(それに「疎外」が道徳外的な意味で〈悪い〉場合もあるだろうから、そこからの離脱の推奨は、必ずしも道徳的要請ではないかもしれない)。いま必要なのは、疎外論規範が道徳規範としては全く不可能だとすることではなく、その道徳的基礎が疎外論規範によって「語りうる」場合と「語りえない」場合とを分ける作業だろう。

⑤他行為可能性――「疎外」は語りうるか?

 ここで、この問題を別の角度から迫ってみたい。「そうしないこともできた」という他行為可能性の観点、ひいては「この現状とは別様であることもできた」という現実への他の可能的な観点を疎外論規範へ接続したいのである。そのこと自体は特に新しい考え方ではない。
 田上によると、マルクスの「疎外」とは〈規範と状況の不一致〉である。

"ある状況Xが疎外されている"という言明は、"状況Xで生きている人間は、彼の欲求を充足できない"という言明を意味するのではなく、"状況Xはある規範Nと一致していない"ということを意味する(Magnis 1975: 173)。

田上孝一『マルクス疎外論の諸相』(p16)

 これは私の解釈だが、自らが関与する規範とその状況の不一致こそ、まさに他行為可能性の信念が隆起する場であると言ってよいだろう。「なぜ、こんなことになってしまったのか?こんなことにならずに済むには、どうするべきだったか?そして、これからどうするべきか?」という思いを持たずして――中島義道はそれを「後悔」と呼んだ――どうして人が現状を変更しようと考えるだろうか?こう言うと、やや誇張しているかもしれないが、この時点では、まだ疎外論規範は「語りうる」ものである。
 つまるところ世の中の他の規範(言語規範や計算規範)と違って、疎外論規範の場合は「この現状とは別様であることもできたか?」という外在的な可能的観点を吟味するほかには、自らの内部に生じうる〈規範と状況の不一致〉を修正する手立てを持たない、という特殊な事情があり、それこそが本論の言う意味での道徳規範としての疎外論規範の内実なのである。
 このあたりの事情については、道徳規範の特殊さを説明する永井の記述が有益である(永井「規範の基礎」1990)。私見では、道徳規範と同じく、疎外論規範も内在的な観点と外在的な観点の両方を持っている(【1】)。道徳規範に通ずる疎外論規範の特殊さとは、他行為可能性のような外在的な観点を認めなければならないと"同時に"、それが現状に対する内在的な評価(批判)として"適合しない"可能性がその規範の内部にあることをも認めなければならない(それを認めるほうが道徳的に「誠実」であるからして)、という事情があってのことである。
 しかし、規範とは、その本質として他行為可能性のような他の可能的観点を排除することで、はじめて《力》を持つものである。永井によると、規範が規範たる《力》を持つためには「他の諸々の可能性」に盲目になることで、まさにそのことによって「何かを行う」ということが可能でなければならない(言語規範や計算規範)。ところが、道徳規範の場合は、むしろ逆に、自己利益や自己幸福の追求を規制するために(【2】)、あらゆる他の可能的観点について盲目であることが禁じられているにもかかわらず、規範としての《力》を持とうとすると、他の可能的観点への盲目性が要請されるのである。永井はこのパラドキシカルな事態を解く方途を示して、こう語る。

道徳規範そのものとは別の次元に、それを支える盲目的規範随順行動の水準が、すなわち決して「べき」であるとは考えられない「べき」であることの水準が、発見されねばならないことになるだろう。

永井均「規範の基礎」1990.『〈魂〉に対する態度』(p59)

 "盲目的規範随順行動"の水準は、外在的な観点から規範(べき)に対する「なぜ?」という疑問を発する者たちを惹きつけはするが、その者たちに対して、道徳規範は〈ほかの誰もがそうするから〉あるいは〈それは君のためにもなるから〉以外の「答え」を与えることはできない。疑問を発した者がその「答え」に満足することはありえない。それゆえに、この水準は言挙げすることができない。永井によると、このことは道徳的要請の水準とは別に、その水準を前提とした上で働く暗黙の「賢慮(prudence)」の水準があることを示している。
 さて、話を元に戻そう。
 〈規範と状況の不一致〉が「疎外」であった。しかし、この「疎外」の観点からは、道徳規範の内部で、自己利益に反してでも〈あって然るべき理念〉の観点から現状を批判して変更しようとする者と、道徳規範の外部で、道徳的要請を前提としつつも、純粋に「賢慮(prudence)」に基づいて(新しい)自己利益と結びついた理想的な状況へと現状を変更しようとする者とを、区別できない。先の観点からは、どちらの道徳的行為者も「疎外されている」ということにおいて大した違いはないからである。
 「疎外」という語に「疎外の止揚」という〈あって然るべき理念〉があらかじめ内包されているとする疎外論規範の水準は、皮肉なことに、その〈あって然るべき理念〉に単に従っている道徳的行為者と、個人的な性向や信条から単に従わないだけの他の「賢慮的(prudencial)」な道徳的行為者たちを、同じように「疎外されている」者であるとして安んじて等閑視してしまう理論的な難点がある。このことは、両者の個人的性向(その人らしさ)を無視しているも同然であり、それは返って、とくに道徳的でも「賢慮的」でもない、自己準拠的でありながら権威従属的な人格を等閑視することでもあろう。この場合には、疎外論規範は「語りえない」ものとなる。

おわりに

 たとえば此処に、労働者、疎外論者、賢者の三人がいたとする。
 労働者は、自分の置かれた現状と規範とのギャップに悩んでいた。労働者は「このような現状にならずに済むには、どうするべきだったか?」と、他行為可能性に思いを巡らせる。
 そこにやってきた疎外論者は、頭のなかで「もし、労働者の持つ規範が別の状況と一致していたならば……」という反実仮想を練って、別の状況においては「労働者は疎外されなかったこともできた」と想定することで、彼が現状から脱するべき理由を客観的事実としての「疎外」へと求める。こうして、疎外論者は「労働者は〈あるべき理想〉に基づいて自身の規範と一致する状況へと現状を変えるべきだ」という、いつもの結論を伝える。
 しかし、そこに賢者が現れて「だから、どうした!」と疎外論者に吐き捨てる。そもそも、日常において「規範と状況が一致しているか?」という疑問を発する場面など、どこにあるだろうか?君たちが本当に自問しなければならないことは、そんな観点ではない。君らが自問するべきなのは「自らの規範と置かれた状況とが一致するかどうか」ではなく「私は、本当に私自身や周囲の置かれた状況を変えうる規範に自ら従うべきなのか?」であろう。