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The Showman: ゼレンスキー伝記を読んで考えたこと
コメディアンから政治家へと転向、ウクライナの戦時大統領になったゼレンスキーの伝記 The Showman を読みました。短くまとめるなら、芸能界出身であるが故にコミュ力抜群の政治家が、世界中の共感を取り付けることに成功し大国ロシアと互角に戦った話、となるのでしょう。しかしこれは単なる英雄伝として書かれた本ではありません。ゼレンスキーの「表現者としての挫折の記録」として読むこともできます。
ゼレンスキーは、ただのお笑い芸人ではなく、政治風刺コメディをやっていた人です。本の前半で、政治家を批判してきた人間が政治家になるという矛盾に葛藤する姿が描かれています。ゼレンスキーの奥さんも、夫のために風刺コントを書いていたライターでした。夫が政治家となり、風刺ライターとしての手腕を発揮することができなくなります。
ゼレンスキーには、表現力で人の心を動かす自信がありました。ロシア人を笑わせたことのある自分ならば、ロシア人の心を掴むことができるのではないか。そんな思いで政治家への道を選んだものの、プーチンの徹底した言論統制とプロパガンダの前に「話せばわかる」は幻想に過ぎないことを思い知らされます。
ブチャの悲劇を見ればプーチンも心が動かされるのではないか。それも幻想でした。ゼレンスキーの「人心を掴む力」は諸外国に向けられ、世界が彼を応援するようになります。
ゼレンスキーはウィンストン・チャーチルと比べられることが多いそうで、本人的にはそれがすごく嫌なのだそうです。チャーチルのような帝国主義者だと思われるのはまっぴらごめん、自分はチャーリー・チャップリンやジョージ・オーウェルのように、表現者として独裁政治と戦い社会を救う存在でありたかったと。
しかしゼレンスキーは戦時大統領として、ウクライナで親ロシアの言論を禁止することになります。つまり、彼自身が「表現の自由」を抑圧する者となってしまうのです。
なぜ、ゼレンスキーは政治家になったのか。チャップリンのように芸人として権力と戦う立場に留まっていれば、矛盾に苦しむこともなかったはず。彼を政治の道へと突き動かしたのは、祖国の「抑圧の歴史」だそうです。第二次大戦時のファシズムによる抑圧、それに続くソビエト連邦の抑圧。自由を渇望し立ち上がったために、自分が批判してきた抑圧者と同じように言論の自由を裏切ってしまうという悲劇。
昔のハリウッド映画ならば、悪の帝国プーチンに立ち向かう勇者ゼレンスキーが、万人の心に訴えるメッセージで自由主義陣営を奮い立たせ、プーチンの野望を挫いてめでたしめでたしで終わるところでしょう。現実には、ハリウッド映画のお膝元であるアメリカの大統領(トランプ)がプーチンに与し、「ゼレンスキーこそ侵略者である」という恥知らずな主張のもと戦争を終わらせ、平和の立役者を名乗ろうとしている。なんという理不尽でしょう。
表現者ゼレンスキーは表現の自由を裏切り、プーチンとトランプの嘘つきタッグが人命を救う(かもしれない)という不条理が、この世の真理なのでしょうか。モヤモヤしてすごく気持ち悪いんですけど、これを乗り越えないと「分断の時代」と対峙することができないのかもしれません。
昨年、地元(カナダ)でウクライナバレエの公演があり、ウクライナ大統領夫人のビデオメッセージを見る機会がありました。プーチンの残虐を訴え、ウクライナへの支援を求めるメッセージに、観客の一人として、深く心を打たれました。
なぜ、カナダ人はケベック州の独立には反対したのに、ウクライナの民族自決は涙を流して応援するのか。あれはオレーナ・ゼレンシカ夫人による洗脳だったのでしょうか。もちろん、ウクライナとケベックは状況が違いすぎて比較にならないのですが、「人の言葉に心を動かされる」という現象をマインドフルに見つめるきっかけになりました。
私は、ゼレンスキーが「抑圧者と戦う中で抑圧者になってしまった」という矛盾を、ただ残念がるだけで終わらせたくないのです。「自分は今洗脳されているのかもしれない。それで良いのか?」と自覚・自問した上で、誰かに与することの意味を考えたいと、思います。