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♡(スキ・いいね)にとらわれる日々~自己承認欲求~

はじめに

毎日の仕事終わり、いつも密かにスマホをのぞき込む。こうして自分の記事に♡(スキ)が来たかどうかを確認する。(相変わらず少ないが…)

 この頃、noteやSNS、フリマアプリの出品物やマッチングアプリの自己紹介など、数多くのものの欄には必ず「♡」が押せるようになってきている。自分も含め、人々はたったちっぽけなこの「♡」に支配されつつある気がする。

知ってしまった快感

 冒頭でも述べたが、ありがたいことに、自分の記事も次第に「♡」をいただくことがあり、これは少しずつ増えてきている。特に、自分の誤字脱字が多いながらも書いた拙い記事に初めて「♡」が付いた時のことは、今でも忘れない。そして、ここで自分は「♡」がつく快感を味わってしまった。

 「♡が付く」ということは、記事の中にある自分が考えたことや経験談、それらのまとめ方や表現方法まで、すべてが「いい!」と認められたことだ(と錯覚する)。

 なんせ、ここにある自分の生き方や書き方などすべてが、特筆するまでもないくらい日常的なものだ。自分にとっては過去や考えたなどはそこら辺のありふれた出来事に1つに過ぎないと思っており、何の価値もない、もしくは人にわざわざ自慢するほどのものではないことばかりである、と思っていた。

 これをnoteにアップするだけで「」がついてしまう。つまり、この何気ない日常には、実は「価値がある」と思うことができるのである。そして、自分の生きていた証が、何というか、色鮮やかな明るいものなのかもしれないと感じることができるようになる。

 また、「♡」によって同じ境遇にいる人の存在を認知できることも大きい。こうして誰かのことを救ったり、少しながら力をあげることができているという実感もまた味わうことができる。

 ただし、ここでのポイントは、「♡」がつくのはいつか分からない、そもそもつくかどうかもわからないことにある。「♡」による快感を知ってしまった自分はまた必死に記事を作り、次来るであろう「♡」を心待ちにしている。でも、それはいつか、はたまたあるかどうかもわからない。こうした複雑な状況の中、今日も淡い期待を抱きながら記事をまとめている自分がいる。

他の人の記事には…

 一方、自分が作者ではなく読者の立場にいるときはどうだろうか。多くの方の記事を見ている時、作者の記事から面白さや奥深さ、学びになったと実感することは数知れない。しかし、たいていの場合、(ひどいことに)不思議なことに頭の中に「『♡』をつけてあげよう」なんて思わずに読んでいる。何なら「この作者はこんなにも『♡』がもらえるなんて、いいな~」と多少ばかりの嫉妬を覚えるほどだ。

 もちろん、その背景には並々ならぬ文章作成への努力や壮絶な人生経験、note歴等も関係しているだろうが、それでも「♡」中毒になっている自分は、いつしか無意識のうちに♡の量に着目していたのだった。

 あるとき、ふと考えた。「自分がその記事の良さを見つけられる力がない奴が多くの人から『♡』なんかもらえるわけないではないか!」いい書き方や考え方を見て学ぶ姿勢が欠落していたのである。

 そもそも、今すぐに「♡」を求めても来ないものは来ない。それが来るのは明日かもしれないし、1月後かも、何なら1年後かもしれない。

 大切なのは、

自分が、今日1日をがんばったの自分に対して「♡」をあげられるかどうか

ってことを忘れつつあった。

おわりに

今の自分の生き方と他社のいいところを見つけることに集中する。このことを大切にこれからを生きていき、「♡」の量にとらわれないで、必要に応じてnoteに戻ってこようと思う。

 こう書きながら、

「だれか「♡」を押してくれないかな」

と思いながら、今日も1日を過ごすのであった。

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