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マツケンサンバとどこが違うの?

 友人に聞かれて答えに詰まった。
 その友人は音楽についてはごく一般的な知識しか持っていない。
 そういう人に向かって2ビートと8ビートの違いを説明したところで理解してもらえるとは思えない。

 さて、どこからはじめるか?

【サウダージ(Saundade)】

 ポルトガル語で郷愁、憧憬、思慕、切なさ、遠く離れた人に対する愛、などを意味する。
 ポルトガル本国では大航海時代から言われてきた言葉で、ファドなどの伝統的民俗歌謡に欠かせないエッセンスである。おそらく航海に出たきりなかなか還ってこない人への心情からくるのだろう。
 ポルトガルの植民地としてスタートしたブラジルでもサウダージはサンバを初めとするMPB(ブラジルポピュラー音楽)に欠かせない要素となっている。しかしブラジルのサウダージはアフリカ大陸にある。奴隷として連れてこられた民族のルーツがそこにあるからだ。そしてMPBはそれをベースとして、ヨーロッパ的クラシック的な舞曲や最近ではジャズやロックの要素を取り入れながら育まれてきた歴史がある。

【カーニバルは楽しいものか?】

 マツケンサンバを「サンバじゃねぇよ」と批判しているわけではない。
 楽曲としては良く出来ている。ポップス路線の楽曲として聴けば楽しい。大衆受けということでは成功している。
 しかしカーニバル=カルナバルが華やかで底抜けに陽気な音楽としての一面のみで捉えられているのは残念で仕方ない。またMPBに対する作詞家と作曲家、制作者たちの見識不足も情けないと思う。
 タイトルが「サンバ」なのに「叩けボンゴ」とかから始まっている。申し訳ないがMPBでボンゴは(全く使われないということはないが)通常使われない。また「セニョリータ」は(別のバージョンでは「サンバ・コモエスタ」ってのもあった。それも含めて)ポルトガル語ではなくスペイン語である。いつか見た別の動画ではテンガロンハットを被っているものもあった。それはメキシコのマリアッチだよ、と突っ込みたくなった覚えがある。
 カーニバルの表面的なきらびやかさのみしか見ていないからそういう間違いを平気で犯す。
 リオのカーニバルに代表されるブラジルのカルナバル(謝肉祭)は底辺に必ずサウダージを持っている。華やかに着飾ったダンサーや打楽器隊のメンバーの大部分は「ファベーラ」と呼ばれる山の斜面に密集する貧民窟から、年に一度一週間だけ街に降りてくることを許されている。分断され虐げられた人々の不満を年に一度だけガス抜きさせるためだともいわれる。その音楽が楽しさだけのはずはない。
 僕にはサンバあるいはMPBは地味で暗くてやりきれなくて哀しい音楽に聞こえる。
 エン・ヘド(Em Redo)と呼ばれるカーニバルのパレードで使われる楽曲多くは先祖の地アフリカを、そしてそこから奴隷として連れてこられたブラジルでの苦難の歴史を歌うものが多い。
 激しいリズムと華やかな衣装は苦しさをいっとき紛らわせるための方便にすぎない。

【何がホンモノかという議論】

 僕はここでそういう議論を展開するつもりはない。
 またブラジル音楽がどういうものか語れるだけの見識も持っていない。
 さらに言えばMPBをひいてはブラジル文化を日本で普及させようという気持ちもない。
 MPBの音楽的深さについては長年それにかかわってきた経験から十分に認識しているが、だからといって、ブラジル人がやっていることをそのまま再現しようとも思わない。それはアマチュアのスタンスだ。
 プロの音楽家としてどうMPBを自分の中に取り込むことができるか。それが僕なりの関わり合い方だ。
 標題の疑問を投げかけた友人は、僕のオリジナル曲は歌謡曲みたいだと言った。またかなりのブラジルフェチからも同様の感想を頂いている。「あれは歌謡サンバ」だと言って片づけることでマウントが取れると思ってる。

「それでけっこう!」

 僕は日本でブラジルを流行らせようなどとは思ってもいないし、ネイティブと同じような音楽が出来るとも思っていない。

【僕にとってのサンバとは】

 僕の基本的な認識は「サンバ(あるいはMPB)は哀しい」というものだ。
 陽気で華やかで底抜けに明るく激しく聞こえるリズム。しかしその底に流れているのはサウダージだ。
 僕には(おそらく)黒人の血は一滴も入っていない。
 生理的には理解不能な音楽の世界だ。
 だからといって出来ないということはない。
 僕のサウダージを表現すればいいだけのこと。
 ビートにあるいはグルーブに含まれる「やりきれなさ」をどう解釈して表現するか。
 その僕なりの感性をどう評価するかは聴く人の自由である。
 僕はサンバをやりたいわけではない。
 
 自分の音楽をやりたいだけだ。


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