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ジョゼ・サラマーゴ『だれも死なない日』(河出書房新社)

人が死なない社会

物語の舞台は、おそらく欧州にあるどこかの国。その国では、ある年の元旦を迎えたとたん人が死ななくなった。「人が死なない」といっても、不老不死ではない。その国でも人は変わらず老いるし、病む。しかし、ほんらいであればもう臨終だという段階になっても、なぜか死ぬことができなくなってしまったのである。危篤の患者は、危篤のまま病院のベッドに横たわりつつ生き続けるのだ。社会は混乱に陥り、葬儀会社や生命保険業界は存続の危機に陥る。患者が定期的に死ぬことで病床が確保されていた病院は、医療崩壊してしまった。困り果てた国民は、ほんらいであれば死んでいるはずの病人を車に乗せて、不死の呪いが解ける国境線を越えて移動し、隣国へ到着すると同時に息絶えた家族をその場に埋葬するのだった。

ポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴの小説『だれも死なない日』は、「人が死ななくなった社会」という架空の状況が描かれた作品である。かつて『白の闇』(河出文庫)で「全ての人がいっせいに盲目になった社会」を描いた著者による「もしもシリーズ」最新作がこの小説だ。寓話的な想像力に引き込まれつつも、「人が死なない社会」には暗澹とした気持ちとなった。人が死なない社会には救いがないのである。たしかに人間には寿命が必要なのだと納得しつつ、いざ自分が死ぬという段になると「他人はともかく、自分がいますぐ死ぬのは嫌だ」とエゴイスティックな思いも捨て切れない。たしかに人はいつか死ななくてはならないのだが、では「明日死んでもいいか」と言われると、ちょっと待ってと言いたくなるのが人情である。

不死の恐怖

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個人的に気に入っているのは、不死の現象が起こるのがある国の内部だけに限定されているという設定。不死は舞台となる国の内側だけで発生しているため、国境線を越えれば人は死ぬ。これが実にいい。ここから始まる「いつまで経っても死んでくれない病人を、国境を越えて運ぶ」というブラックな展開が効いているのだ。国境線の向こう側へ移動すれば死がある、という設定の妙に惹かれた。なぜ不死は国単位で起こったのか、あれこれ考えているのだが答えが見つからない。当初は高齢化社会の暗喩ではないかと思ったが、そうした現実的なテーマの暗喩だけでは収まらない射程の広さが感じられる。考えてみれば日本もまた高齢化社会であり、本作のあらすじからは、少子化や年金崩壊など日本にとっても切実な問題が読み取れそうな気がするが、死をつかさどる存在、大鎌を持った死神(モルトと呼ばれている)が登場すると、より寓話性が高まっていく。

死ぬこと自体も憂鬱だが、歳を取ってしだいに身体が動かなくなり、未来への可能性が失われていく過程も実に怖い。本書を読みつつ、迫りくる老いや死への恐怖をどう克服していくか、つい考え込んでしまった。そういえば、Netflixのドラマ『オールドガード』(2020)は、不老不死の戦士たちが何十世紀にも渡って世界の悪と戦い続ける物語だが、見終えて彼らのようになりたいとは全く思わなかった。彼らはナイフで刺されても、銃を撃たれてもすぐに傷口がふさがり、死なないのだ。とはいえ不死の人生、数千年ものあいだ生き続けることは過酷であり、仮に歳を取らず若いままでいられるとしても、「死なない」(死ねない)状態とは非常に苦痛であることが想像できる。『オールドガード』の登場人物自身、ほとんど無限ともいうべき時間を生き続けなくてはならない運命にうんざりしているように見える。愛する人が老いていくのに、自分は変化しないというのも孤独だろう。『だれも死なない日』を読みながら、死ぬのは怖いけど、死ねないも勘弁してほしいと行き場のない気持ちが湧き上がる。人間の生って過酷よね。

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