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蓮實重彥『ジョン・フォード論』(文藝春秋)
とてつもない記憶力
精力的な刊行が続く蓮實重彥である。今年4月に出た『ショットとは何か』(講談社)はよく売れているようだ。そして、長らく刊行が予告されていた、米映画監督ジョン・フォードにまつわる論考が出た。それが『ジョン・フォード論』(文藝春秋)である。やはり、どうしても買ってしまう。映画の秘密が解き明かされているような気がするから。蓮實重彥なら、映画そのものの謎を解いてくれるのではと思ってしまうのだ。もう何十年も映画を見ているはずなのに、見れば見るほど逆にわからないことが増えていくし、「そもそも私は画面に映っているものをきちんと見れているのか?」という思いも強くなっていく。私もよく「映画を見た」などと軽く口にするが、同じ映画を見た人の話を聞いて「そんな場面はあっただろうか」と思うことも多い。それって「映画を見た」と言えないのではないか、どうすれば真の意味で「映画を見た」ことになるのかと考え込んでしまう。
本書を読んで驚くのは、蓮實重彥が細部に渡って「映画を見て」いることである。スクリーンに映っているものを逃さずに見ようという意思を感じる。それにしたって、このように膨大な記憶を、どのように保持しているのか見当もつかない。馬、ラバ、羊などの動物。樹木が登場する場面。雨のシーンとレインコート。ダンス。幽閉と奪回のモチーフ。腕のケガと三角巾。蒸気機関車。登場人物がものを「投げる」動作。白いエプロンをつけた男女。フォード作品に頻出する、こうした細部をひとつひとつ取り上げつつ、どの作品でどのように描かれていたかを論じていく本書を読みながら、「よくここまで記憶しているものだ!」と驚いてしまった。どうやっても、ここまで映画の細部を覚えることができない。フォードの映画で登場人物は傘を差さない、レインコートを着るか、仮に差すとすれば日傘、といった視点をどうすれば持てるのか。
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映画を見るって難しい
とはいえ、本書はいかにも蓮實重彥な本でもある。あいからず、何かのテーマについて言及するような雰囲気を出しながら「ここでは触れずにおく」と引っ込めてしまうし、同じテーマで書いている研究者や映画批評家の意見をひっぱり出してきてはこてんぱんにやっつける。ほめているのかけなしているのかよくわからない形容も同じだし(「優れた映画作家と呼ばざるをえないクエンティン・タランティーノ」「無能とは呼べぬばかりか、むしろ感性豊かな批評家であり精緻な理論家でもあったバザン」)、50年代、60年代にフォード作品を正しく評価しなかったカイエ・ドゥ・シネマをこきおろしてみたりと、執念深さも普段どおりだ。本書を読むと「『カイエ』誌の記事がどうだった」という記述は多いのだが、それってつまり蓮實重彥は、60年以上前にフランスで売られていた映画雑誌のバックナンバーを、いまだにひと揃い手元に持っているということであり、それだけでも何だか気が遠くなりそうである。何で持ってるんだ、そんな古い映画雑誌。
「フォードの映画とは、自分と同じ境遇にありながら、不幸にして遥かかなたの不吉な空間に幽閉されていた者たちを連れもどすこと、あるいはそのために疲弊しきって故郷に戻ることを主題とした作品なのだ」。こうした記述を読むと、たしかにそうだと納得させられる。本書をきっかけにして、自宅でフォード作品をいくつか見直す機会もあり、これまでとは違った目線から見れているようにも感じる。とはいえ、まだフォードの映画が何を描いているのか、私はよくわかっていないし、多くのディテールを見逃してしまっているのだろう。何しろ映画を見るというのは難しくて、得体の知れない作業なのだと感じた『ジョン・フォード論』だった。