カッコーの巣の上で
アメリカン・ニューシネマの中では素直に見れる映画
さて、前回に引き続きアメリカン・ニューシネマの代表作とされる「カッコーの巣の上で」を鑑賞した。
今作についてはアメリカン・ニューシネマの中でも後期に位置づけられる作品である。映像も「卒業」と比べるといくらか進化しているように感じると同時に、「卒業」や「タクシー・ドライバー」のような胸糞悪さは比較的少なく、幾分か気楽に鑑賞できる印象である。
もちろん、敷居が低い=浅い作品というわけではなく、視点によっていくらでも見方を変えられる、懐の深い作品と感じた。
それぞれの立場
原作はケン・キージーが1962年に発表した同名のベストセラー小説。精神異常を装って刑務所での強制労働を逃れた男が、患者の人間性までを統制しようとする病院から自由を勝ちとろうと試みる物語である。
ウィキペディアでは序文にこんなあらすじが書かれているが、主人公であるマクマーフィー(強制労働を逃れた男)がヒーロー的扱いで、理不尽な統制を強いる看護婦長のラチェッドはじめ、精神病院に対し反抗する、という単純な話でもない。
確かに、ラチェッドら病院の対応は現代の自分たちからすると、刑務所と変わらないような不自由な生活で、これが何の治療になるのだろうと疑問に思う面はある。また、拷問に近いような治療、特にロボトミー治療という、人を廃人にさせるようなやり方をみてみると、精神病患者に人権はないのかと疑ってしまう。
しかし、映画ではラチェッドが本気でマクマーフィーを治療するのだと言及する場面があり、悪意あっての行動ではないのだろう。ラチェッドの立場からすると、規則に厳格な生活も、薬を飲み続けることも病から回復する一貫だったのだろう。拷問のような治療も、当時の基準としては物理的なショックを与えることが何らかの回復に繋がると考えられていたのだろう。
一方反抗するマクマーフィーも、基本的にやっていることはただのどんちゃん騒ぎかつ突発的な行動で、当初は周囲の支持を得ることは難しかった。病院の管理がえげつなくなるに従って、マクマーフィと同じように抗議する患者も出てきたり、マクマーフィーも支持を受けるようになっていったが、何かしらの信念あっての行動には見えなかった。
ラチェッドにしろマクマーフィーにしろ、それぞれの立場なりの言い分はあったろうし、どちらの弱点も感じた。どちらの側にも肩入れしない按配が、鑑賞者に心地いい緊張感を与え、物語に深みを出していた。
自由と秩序~人は自由をいくらでも放棄する
映画を鑑賞していて面白かったのが、ラチェッドとマクマーフィーの間で揺れ動く他の患者達の同行だ。当初、患者達は特段ラチェッドら病院の管理に対して不平を言うでもなく、こんなものとして受け止めていた節があった。それがマクマーフィーが登場することで、除々に自分たちの本音が言えるようになっていく。しかし、最後マクマーフィーが退場することで、再び病院の管理を受け入れることになる。
もちろん一括にできるものでもなく、個々の患者たちにもマクマーフィーの対応には温度差があるのだが、、大雑把にいえばこのような流れで物語が進む。映画を見ていて思った。大半の人間が同じ状況に陥ったら、良くも悪くもこうした患者たちと同じ行動をとってしまうのではないだろうか。
基本的に人は自分の置かれている環境に疑問を持つよりも、目の前のことを受け入れてやり過ごす、ということの方が一般的ではないだろうか。別の面からいえば、どこに進むかわからない自由を選択するより、ある程度管理された環境、社会の方が余計に物事を考えなくてすむし、楽なのだ。
よく刑期を終えた囚人が再び刑務所に戻るために、あえて犯罪をおかす、という話を聞いたことがあるが、それは刑務所の生活が物理的に楽、ということではない。金と時間と自由を長期間拘束されるし、刑務所の閉じた人間関係や、何の意味があるのかわからない労働を強いられるという点で苦役なはずだ。しかし、それでもあえて刑務所に戻りたいという心理は、自分で社会に生きる突破口を見つけなくてよいという、ある種の安心感があるのだろう。この映画の登場人物も同じで、人間の尊厳を剥奪されているのではないかと言われたらそうだが、ラチェッドの管理体制は患者達にとっても利益があったといえるかもしれない。
マクマーフィーの登場で、実は自分が望んでいたことは何だったのか、色々と振り返る機会が患者達にはできたのかもしれないが、結局多くの患者はもとの生活に戻ることを是とした。一面で悲しいことだが、それは人間の歴史を振り返ると思い当たることである。
ジミーの脱出
唯一病院を脱出したのが大男のジミーだ。理由はわからないが、ジミーは聾唖を偽って精神病院にいる。マクマーフィーは彼を励まし、一緒に外に出ようと提案するが、はじめ、ジミーはマクマーフィーを相手にしなかった(聾唖を装っていたので当然だが)。しかし、マクマーフィーとの交流を続け、また病院の対応が厳しくなるにつれ、ジミーの心は変化していく。聾唖ではなかったことを告白したジミーだが、いざ脱出することを決心したときには、マクマーフィーは廃人となっていた。ジミー一人が病院から脱出することで、映画は終わる。あまり明るくない作風の今作ではあるが、最後彼が脱出する様は、数少ない気持ちを高揚させるシーンでもある。
映画では多くは語られていないが、彼の行動の背景には考えさせられるものがある。背の高いネイティブ・インディアンとして、周囲とは違った境遇にいたことが想起される。各人の背景を語らないこの映画だが、彼の心境の変化を追うため、何度も鑑賞したくなる。
最後に
廃人になったマクマーフィーをジミーは絞殺することで脱出することになる。絞殺の理由がいまいちピンとこなかったのだが、上記の記事を読んでなるほどと思った。ビリーの自殺の原因や、またラチェッド看護師長はじめ、病院側の現場を務める労働者が女性や黒人であるなど、他にも気になった場面はある。「カッコーの巣の上で」はアメリカ社会の背景、歴史を知ることでわかる要素がいくつもある、繰り返し鑑賞したくなる作品であった。また折を見てこの映画に望みたい。