転倒

文学や、詩や、哲学や芸術といったものは生きていく過程において余剰物だろうか。この問題というか、疑問は初歩的だが、ずっと自分の中にある。僕は最初にあげたこれらのものが好きである。読書をしたり、芸術作品を鑑賞したり、また自分はどういったものを作ることができるのかということを考えている間は何もかも忘れられる。将来生きていくために学ぶという目的に先立って、まずそのような楽しさや好奇心がある。僕にとって生きる価値はそこにある。たくさん考え、たくさん意見を交わし合って、新しい価値を作ることに。
 そのように思うからこそ、僕はそれらの文化的なものが普遍的にみんなにとって価値があるものだと考えてしまう。(ここでいう価値とは、実際に作品などが持っている価値ではなく、それを認識する人の価値についてである。)
 実際はというと、大抵の人間は私が好きなことに対してなんら興味を持っていない。芸術の中でダ・ヴィンチかラファエロかという問題ではなく、芸術自体に興味がない。彼ら、彼女らは僕が得るほどに芸術から救いや好奇心を得ない。反対に彼ら、彼女らが救いを得るものから僕はなんら救いも得ないこともある。いわんや嫌悪感する感じることもあるだろう。
 生物として生きる中で、僕が最初に列挙した事柄は何も必要不可欠のものではない。哲学がなければ生命を維持できないわけではない。ゆえに文学や、詩や、哲学や芸術は、単に精神の余剰物として存在していて、生きることに余裕がある人間の余暇でしかないのだろうか?
 僕個人として、生きるためにはそれが必要だ。命を焚べてでも、それに没頭したい。僕には経済的余裕も比較的ないし、さほど頭もいい方ではないし、不器用である。でも食べるよりもそれらに没頭したい。僕はその意味で、生きる上で余剰物であるはずのそれらが絶対必要不可欠なものとして転倒していると思う。
 芸術は地を耕すわけでも、人の喉を潤すわけでもない。だが人間が人間であるための、僕が僕であるための条件だと思うのである。
 
 

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