第16話 白日*3〈終幕〉 どれほど時が過ぎたのか。香世子の手が止まってしばらく、私は恐る恐る顔を上げた。彼女は向かいのソファにぐったりともたれかかり、放心したように宙を眺めていた。 「……香世子?」 乱れた髪が頬に落ち、彼女の細面を一層儚く彩る。それでもなお、彼女は美しい。美しいと思う自分がいた。 「……なんなのかしらね」 落とすように、呻くように呟く。指先が、顔を覆う。隙間からのぞいた瞳には、湿った光が浮かんでいた。 「あなたを殺したいほど憎いわ。……でも、私に残され
第15話 白日*2 ――いつもより遅くに帰宅した娘に何が起こったか、継母はすぐに理解した。 彼女は警察には訴えず、娘の身体と精神と将来を慮って全てを忘れなさいと言い聞かせ、電光石火の素早さで様々な手配をした。 おかげで、というべきか他の誰にも――父親にすら――この一件は知られていない。継母は、血の繋がらない母娘の不仲を理由に、自身を悪者に仕立て上げてでも、娘を逃がした。 それが正しい判断だったのかどうかはわからない。だけども、私は自分で自分を殺さずに済んだ。もしかすると
第14話 白日*1 『白』には、甘く柔らかく芳しいイメージがまとわりつく。 お砂糖、ホイップクリーム、ババロア、メレンゲ、バニラ、ミルク、フリル、レース…… うっとりと、滑らかで、陶酔させられる、誘惑の色。 香世子はその色を具現したような少女だった。ひとりぼっち、孤独だからこその透明感。 クラスメイトも、通学班のメンバーも、大人だって気付いていない。彼女のその価値。崇高さ。純粋さ。知っているのは私だけ。 だから、他の誰にも立ち入られたくなかった。汚されたくなかった。
第13話 暗転*4「私が貴女をいじめていたから、貴女の娘が死んだっていうの……?」 長い物語の末、導き出された答え。そのあまりの暴論に、私の声は上擦った。 「そんなわけないじゃない! 今、初めて! 貴女に娘がいたと知ったのよ!」 抗弁に、しかし香世子は無表情で、 「まさか。転校生が仲間外れにされるなんてよくある話よ。でなければ、いくらでも子どもが死んでしまうわ」 ――あくまで香純を死なせたのは信号無視の車よ。 呟いて紅茶を含む香世子をひどく場違いに感じる。会話にどうし
第12話 暗転*3 ――子ども時代、たった一年過ごしたその町は、森に似ていた。 彼方に薄青い山の稜線が横たわり、その境界まで田畑が広がる長閑な風景。それは一見、平坦で、間延びしていて、森とは似ても似つかない。だけれども、その気配が、雰囲気が、森を思い起こさせた。見通しが良いにも関わらず、何が潜んでいるかわからない。餓えた獣か、毒の虫か、それとも人喰い魔女か。走っても走っても出口が見えない。進めば良いのか、戻るべきなのか、方向感覚すら失っている。暗い森にポツンと一人。置き去り
第11話 暗転*2 香世子は一瞬驚いたように瞳を見開き、次にゆっくりと目蓋を伏せた。サティの音楽に耳を傾けるように。そして紅茶を一口啜り、ほうっと長い吐息を落とす。 「それが、あなたの脚本なのね」 ――この紅茶、ちょっと渋いわね。そんな台詞と置き換えても違和感の無い口調だった。 私の戸惑いをよそに、香世子はティーカップを静かに下ろす。ソルトケースの粉末をケーキに振りかける。クリームをすくって舐める。 そこには狼狽とか、迷いとか、怒りとか、余計な感情は見当たらなかった。ご
第10話 暗転*1 翌日、美雪は幼稚園を休んだ。 薄着で外にいたせいか、それとも精神的な何かが起因しているのか、三八度を超える高い熱が出た。だが、食欲はあるし、ぐずってもいないので、そう心配はないだろう。私は母に美雪の看病を頼むと、自家用車でショッピングセンターまで出かけた。 家族の誰かが風邪を引くと必要以上に買いすぎてしまう。ショッピングセンター内のドラッグストアで風邪薬と冷却シートだけ購入するつもりだったが、少し立ち寄ったスーパーでジュース、ヨーグルト、ゼリー、プリン
第9話 迷道*5 今日ほど実感したことはない。広くて狭い。それは当然、狭くて広い、と同義だった。 どこもかしこも見慣れた風景に埋め尽くされたちっぽけな町。だが人の足で動くにはあまりに果てが無い。呼べど叫べど、乾燥した風に、鉛色の空に、枯れ果てた稲田に、声は虚しく吸い込まれる。それでも小さな橋を渡り、公園を通り抜け、小学校の前を横切り、ただ一点を目指してひたすら走り続ける。 『何か』なんて起きるわけがない。走りながら自分の心臓に言い聞かす。だがそれに反論するかのように鼓動が
第8話 迷道*4 どうしたの? どこか痛いの? 何か言われたの? 昔、だんまりの香世子の黒々とした瞳を覗き込み、彼女の心の裡を探るのは私の役目だった。 しかし、二十年ぶりに再会した友人は、随分と変わっていた。それは『変貌』ではなく、『成長』という意味で。もちろん外見はさらに磨かれていたが、特筆すべきはその内面だ。豊富な知識、軽妙な会話、細やかな気配り。いじめられても何も言い返さず、小さくなっていた少女時代が嘘のよう。引っ込み思案の虫は、美しい蝶へと羽化していた。 私の庇
第7話 迷道*3 悔し紛れの捨て台詞。気にするほどのことじゃない。 そうは思っていても、ジャガイモを乱切りにする手の力を緩められない。ニンジンを真っ二つに切ってしまってから、まだ皮を剥いていなかったのに気付いて舌打ちする。夕刻、私は夕食の支度をしながら、まだイライラと弥生とのやりとりを思い出していていた。 〝あの子が私たちと違うって、一番よく知っているのは直ちゃんじゃない〟 私と香世子が違う? そんなの誰に言われるまでもなく承知している。香世子は特別なのだ。けれど、私は
第6話 迷道*2「藤田さん。……直美さん」 幼稚園の正門を出て最初の曲がり角、不器用そうな足音と、かすれ気味の声を聞く。振り返れば、美雪と同じりんご組の女の子、マリちゃんの母親――いや、違う。 「直ちゃん、相変わらず歩くの速いねえ」 相変わらずのショートカットに、化粧っけのない丸顔。そこには元同級生の新森弥生がいた。 彼女とは小学校、中学校が同じで、仲良しグループの一人だった。私と同様地元に残り、婿をもらい、子どもを産み、同じ幼稚園に娘を通わせている。もっとも今では、『
第5話 迷道*1 噂なんていい加減。だが可能性の一つだと考えれば、安易に切り捨てられない。こと、我が子に関わるならば。その気持ちは理解できなくもなかった。 「最近、不審者がうろついているんですって」 「白っぽいコートを着て、眼鏡をかけて」 「園のフェンスから少し離れた場所で、じっとうかがって」 「子どもたちが怖がっていて」 美雪が通う幼稚園は個人登園だ。毎日、徒歩十分の距離を送り迎えしなくてはならない。そして、正門脇で開催される井戸端会議にも出席しなくてはならなかった。情報
第4話 再会*4 少女時代、香世子はあまり笑わなかった。 とても美しい家族だった。大学教授の父親。美人で若い母親。清らかで賢い子ども。〈城〉にふさわしい、非の打ち所がない、夢見た通りの。私は引っ越してきた一家に憧憬を抱いていた。 だが内部から覗けば、あっさりとほころびが見つかるものだ。その頃〈城〉には、週に数回、家政婦が通っていた。今ほど個人のプライバシーが声高に叫ばれていなかった時代だ。私は何度か、家政婦が近所の人と立ち話をしているのを見ている。恐らく彼女が漏らしたのだ
第3話 再会*3「〈……あの子を、森に連れ出しておくれ。二どと、みたくもない。あの子をころして、そのしょうこに、あの子の肺と心臓を、もってきておくれ〉 狩人は、お妃のいうとおり、姫をつれだしました。狩につかうナイフをひきぬいて、白雪姫の、なんのつみのない心臓を、つきさそうとすると、姫は、なきだして、こういいました……」 美雪は、香世子のお土産をことのほか喜んだ。迫力ある絵柄を怖がらないかと心配したが、まったくの杞憂だった。もしかしたら、子どもの方が『本物』を嗅ぎ当てる能力
第2話 再会*2 角砂糖を積み上げた城。 小さな山を背に、田畑や住宅地を見下ろす高台に建てられたその家は、幼い私の目にそんなふうに映った。 別荘として建てたのだろうか。〈城〉は半年かけて新築されたものの、完成後一年経っても誰かが入居する様子はなく、無言のままそびえ立っていた。だが、この辺りは休暇に足を伸ばすような景勝地でなければ、温泉が湧き出るような保養地でもない。 ――一体、何様のつもりかね、ありゃ。挨拶も無しに、あんな場所に建てて。 忌々しそうな母と祖母の声。当時
あらすじ(299文字) 主婦・直美は、二十年ぶりに憧れの幼馴染・初瀬香世子と再会する。離婚して実家に戻った香世子と親しくするが、帰ってきた理由が継母への復讐だと気付き距離を置く。 娘の美雪が幼稚園から連れ出され、直美は継母への虐待の口止めのためだと香世子に喰ってかかり、昔のあだ名「かめこ」と叫ぶ。直美は香世子を苛め、直美の嘘により、香世子は襲われ、継母の配慮から祖母に預けられていた。 香世子は娘を事故で亡くしていた。継母の看病のため実家へ戻り、そこで見た理想の母親を演じ