白雪姫の接吻9
第9話 迷道*5
今日ほど実感したことはない。広くて狭い。それは当然、狭くて広い、と同義だった。
どこもかしこも見慣れた風景に埋め尽くされたちっぽけな町。だが人の足で動くにはあまりに果てが無い。呼べど叫べど、乾燥した風に、鉛色の空に、枯れ果てた稲田に、声は虚しく吸い込まれる。それでも小さな橋を渡り、公園を通り抜け、小学校の前を横切り、ただ一点を目指してひたすら走り続ける。
『何か』なんて起きるわけがない。走りながら自分の心臓に言い聞かす。だがそれに反論するかのように鼓動が激しく打ち鳴らす。
私は神様を信じていない。それは無宗教であるという意味ではなく、純粋に居ないと思っている。どれだけ願っても大切な友人を救えなかった。彼女にはこれっぽっちも非が無かったのに。同様、娘にだって罪は無い。
腹立ち紛れに、ほどけかかったマフラーを投げ捨てる。肺に流れ込んだ冷気が咳を誘発させる。涙に風景が滲む。目元を拭い、顔を上げれば、いつの間にか白いものがちらちらとが舞い始めていた。純白の使者は、一層、私の焦燥を掻き立てる。どうか無事でいてと、胸の中、繰り返す。
神に祈ることはない。ならば、この想いはなんと名付ければ良い――?
カシ、マツ、イチイ、モチノキ、ツバキ、サザンカ。二月の終わり、まだ真冬とも呼べる季節だというのに、石段を駆け上がった先には鬱蒼と緑が生い茂っていた。遠目で見れば、小さな森にも見えただろう。赤い鳥居、石灯篭、濁った水が溜まった手水舎。人気のない深閑とした神社は、二十数年前、三日と空けないで訪れていた遊び場だった。
今更、改心して神頼みをしようというわけではない。疲労と不安で窒息しそうになりながら、境内を見渡す。沈黙する緑と社。
……誰もいない? 砂利を敷き詰めた参道の手前で立ちすくむ。いや、違う。かくれんぼや缶蹴りには絶好の場所。カシの木の裏、石段の下、茂みの影、そして……社の奥。
乱れた呼吸が止まり、ぞわりと総毛立つ。
と、目の端で、何か白いものが動いた――あの子? あの子のコートも白かった。
だが、ほとり。微かな音を立てて落ちたのは純白のツバキ。首ごと落下したそれは、あまりに美しい凶事の前触れ――
私は突き動かされるように参道に踏み込んだ。
じゃりり、小石と小石が身をこすれ合う。つんのめるように賽銭箱の前まで走り寄り、拝殿を覗く。ほこりと木の香が混ざった懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。
ご多分に漏れず、この神社は正面に拝殿が建ち、その後ろに本殿が建つ。拝殿は、幣殿も兼ねているため奥深い。だが板戸が開け放されていたので、本殿の切妻造りの屋根まで見通せた。
その向こうで、今度は黄色い何かがちらり、視界に入る。私は慌てて拝殿を迂回し、本殿の前へ転げ出た。
黄色の通園帽、水色のスモック。舞い散る雪の中、ぽつんと一輪、塗り潰されてしまいそうな小さな小さな春の野花。
「美雪!」
美雪は本殿を取り囲む瑞垣の前でぼんやりと立っていた。
取りも直さず、駆け寄り、小さな身体を抱きしめる。どこも痛いところない? 変なことされなかった? 頭の後ろを右手で支え、左手で背をさすり、私は馬鹿のように繰り返した。当の美雪は、ママ? と、不思議そうな声を上げるばかり。
「どうして、どうして、こんなところに……」
娘の温もりと重みがようやく伝わってきた頃、私は切れ切れに尋ねた。それは美雪にというよりも、やりきれなさが押し出させた単なる呟きだった。あるいは、神様に、ということにしたって良いのかもしれない。
「…………?」
と、腹のあたりに異物感を覚え、わずかに美雪から身を離す。
美雪が持っていたのだろう、てん、てん、てん……と、蛍光イエローのゴムボールが地面に落ちた。美雪はするりと私の腕を抜け出して、ゴムボールを追いかける。しゃがみ込み、視線を落としたまま、
「ボールがね、道路に出ちゃったの」
「……ボール?」
「友達になってくれたら、とってくれるって」
どこかで聞いた話だった。金色の鞠を泉に落としたお姫様。そこに現れた蛙が、願いを聞き入れてくれたら、取ってきてあげましょうと持ちかける。そんな童話があったような……
「誰が、そんなこと言ったの?」
まさか本当に蛙というわけではないだろう。だが娘の答えは同じぐらい突飛なものだった。
「お妃さま!」
振り返ったその顔がパッと輝く。
「お妃さまね、みゆきに約束してくれたの。ここでまってたら、ママがおむかえきてくれるって」
――だからね、みゆき、ずっといい子で待ってたの。
美雪は笑う。さも嬉しそうに。小さなえくぼをつくって。なんの曇りも憂いも無く。私は呆然とその晴れ晴れとした笑顔を見つめた。
にわかに高らかな電子音が響き、私はびくりと肩を揺らした。神社の境内には不釣合いな軽快なリズム。美雪の好きなアニメの主題歌だ。私は動揺しながらもダウンジャケットのポケットに入っていた携帯電話を取り出す。
「……もしもし」
『藤田さん? ああ、ようやく繋がった。落ち着いて聞いてね、やっぱり警察に連絡を、』
自分よりも余程うろたえた幼稚園教諭の声音が、逆に私を冷静にさせた。ぼんやりとしながらも応答する。
「美雪、いました」
『ええ、本当?』
「すみません。私、勘違いしていて。知り合いにお迎えを頼んでおいたのを、すっかり忘れていたんです」
『……藤田さん? なら、良いんだけど、それ本当に、』
訝しげな口調。気持ちはわからないでもない。だが、私自身の疲労も深く、ここであれこれ追求されたくなかった。タイミング良く、ママ電話だあれ? と美雪が尋ねてくる。無邪気な声は電話を通して聴こえただろう。
「今日はこれで失礼します。お騒がせして申し訳ありませんでした。また後日、改めてお詫びに伺います」
私は口早に告げて、まだ何か言い掛けようとする相手を制し、一方的に電話を切った。
脱力し、吐息をつく。
見回した境内は、やはり人気が無い。
見下ろした美雪は、ボールをつきながらアニメの主題歌を歌っている。
見上げた空は、もう雪が止んでいた。