白雪姫の接吻14
第14話 白日*1
『白』には、甘く柔らかく芳しいイメージがまとわりつく。
お砂糖、ホイップクリーム、ババロア、メレンゲ、バニラ、ミルク、フリル、レース……
うっとりと、滑らかで、陶酔させられる、誘惑の色。
香世子はその色を具現したような少女だった。ひとりぼっち、孤独だからこその透明感。
クラスメイトも、通学班のメンバーも、大人だって気付いていない。彼女のその価値。崇高さ。純粋さ。知っているのは私だけ。
だから、他の誰にも立ち入られたくなかった。汚されたくなかった。侵されたくなかった。
――私と香世子、二人きりの世界を。
石段を駆け上がる。息を切らし、鼓動を打ち鳴らし、がむしゃらに手足を動かす。
だんだんと立ち上がってくる赤い鳥居。はやく、はやく、あともう一息――はやる気持ちが背中を押す。最後の一段を上りきれば、そこは小さな鎮守の森。澄んだ空気、濃い緑の匂いを胸いっぱいに吸い込み、私は心を落ち着かせた。
と、鼻先に何やら白いほこりのようなものがひっつく。かじかんだ指先でつまめば、それは音も無く溶け消えた。
……雪。
振り仰げば、快晴とは言えないけれど、曇っているわけではない。氷色した薄青い空には淡く白っぽく輝く太陽が居座っている。けれど、その下、真綿のような雪が後から後から降り零されていた。
こんな天気は初めてだった。国語の授業で『風花』という言葉を習ったけれど、それはちらちらと舞う少量の雪を指していたはず。これだけたっぷり降るのでは、ちょっと違うかもしれない。だったらなんて呼べばいい? 少しの間、私は考える。雨なら、天気雨。……だったら、天気雨ならぬ天気雪はどうだろう。
私はこの不思議な空模様がいたく気に入った。この舞台に、それはとても相応しい演出に思えたのだ。
息が整った頃を見計らい、物音を立てないよう、社が見える場所まで移動する。
そして……ああ。視線を巡らせて、私はほおと嘆息した。
白いダッフルコート、赤いマフラー、艶やかな黒髪。降りしきる雪の中、少女がたった一人、ポツネンと佇んでいた。
それはこの一年近く続けてきた儀式のようなものだった。放課後に遊ぶ約束をして、わざと嘘の待ち合わせ場所を教えて、迎えに行ってやる。面倒だったが、香世子との時間を確保するためにはしなくてはならない手順だった。
周囲に溶け込まず、何者にも染まらない転校生。――いや、違う。私が何者も寄せ付けないように細心の注意を払っていた。言い換えれば、守ってやっていたのだ。私は彼女が泥臭い子ども達と遊び、彼女にまで泥が撥ね飛ぶのが耐えられなかった。
しかし、私自身が積極的に香世子と仲良くすることはできなかった。〈城〉や香世子自身に対する反感が鬱積している今、クラスの女子のリーダーとして、香世子は排斥するべき存在だったから。なんらかの建前が必要だったのだ。
そこで私は一計を案じた。他の女子には香世子を攻撃・無視するように指示し、私が孤立した彼女に親切にしてやることで囲い込む。もちろん、その親切とは、シンデレラの継母や小公女のミンチン先生のそれだった。香世子の隣にいながら、自分の立場を崩さず、かつ他の子どもを近寄らせずに納得させる。ついでに『皆仲良く』という教師のリクエストにも応えてやる。
そうした計略の上、孤独で寂しく、だからこそ美しい香世子を、私は虫かごに入れた珍しい蝶のように愛でていた。
光を孕んでゆっくりと降る雪の下、香世子は諦めたように社の前にしゃがみ込む。その瞬間、彼女をひざまずかせて屈服させた心地になり、えもいわれぬ充足感でいっぱいになった。
……そろそろ、良いだろうか。私は物音を立てないように注意しながら、身を潜めていた木陰から出る。
最も重要なのが、次。蹲った香世子の前に現れて、手を差し伸べる瞬間だ。無言のまま、無表情に、無心に見上げてくる、漆黒の兎の眼。差し出した手に重なる、白い手。世界にたった二人。よるべなき少女が頼れるのは私だけ。そんな錯覚に浸れるのだ――
昂ぶりを押さえながら、参道へ出ようとした、刹那。じゃりりと小石を踏む音を聞き、私は慌てて木陰に戻った。
――誰?
思わず、顔をしかめる。この大事な瞬間を邪魔するなんて。私は憎しみを込めて音のした方を睨みつけた。
社の裏手からのっそりと現れたそれは、最初、大きな犬に見えた。よくよく目を凝らせば人間――黒っぽい服を着た男の人。大粒の雪に邪魔されて、顔まではよくわからないが、少なくとも自分の知り合いではなかった。
男は香世子へ歩み寄る。大股で。
神社で遊ぶなと叱られるのだろうか。つい昨日も公園で遊んでいたら、裏に住むおじさんから、もう暗いから帰れと怒鳴られた。最近はおかしな輩がうろついている、遅くまで遊んでいるんじゃない。おかしいのはあんたの方じゃん、と皆で顔を見合わせて無視して遊び続けたけれど。
香世子は空に手を差し伸べ、雪を受け止めるのに夢中で、背後から近付く男に気付かない。
男は黙ったままにじり寄る――どうして、何も言わないのだろう? あんなに近付いては、臆病なあの子は跳び上がるぐらいに驚いてしまう。
ふいに。吹き上がるような怖気が背筋を駆け上がった。それは一瞬のうちに、一気に、一直線に頭蓋まで到達して――
唐突に悟る。その危険性に。
具体的なことはわからない。漠とした危険信号。でもとても禍々しく、忌わしく、どす黒い。子ども同士の中で生まれる悪意とは比較にならないそれ。
白く煙った向こう側の光景に、私は息を止めた。
背後に立った男が覆い被さるようにして香世子のか細い手首をつかむ。驚いて彼女は振り返る。だが、抵抗する猶予も無く、立ち上がらせられる。
あっという間だった。男に引きずられた香世子は、呑まれるようにして拝殿の奥へと消えてしまった。
あとには物音一つ響かない境内にきらめく雪が降り零されるだけ。
唖然とした。何が起きたのか、うまく理解できなかった。回転速度が異常に鈍くなった頭で、それでもぼんやり考える。――誰か、助けを、呼ばないと。駆け出そうとして、足を止めた。
でも。
なぜ、こんなところにいたのか訊かれたら?
もし、仲間外れにしていたことがばれてしまったら?
万一、私の心のうちが知られてしまったら?
「あ、……」
寒さか、恐怖か、全身が震えた。
振り返れば、夢のように美しい雪が淡々と神社を塗り潰していた。先ほどの凶事など無かったように。むしろ、それこそ夢と言わんばかりに。
社からは何も聞こえて来ない。耳が痛いほどの静寂。雪が全ての音を吸い尽くす。
私は神社に背を向ける。強張った手足で、石段を下りる。決して振り返らない。
翌日、香世子は学校に来なかった。それから、ずっと、ずっと、ずっと。