普通に囚われない|自分とは何者か
物心ついたときにはすでに感じていた私の違和感
幼い頃の私は“自分”というものがわからなかった。
というのは、自分が好きなこと 自分の考え 自分のやりたいこと
がわからないまま過ごしていた。
たとえば漫画やゲーム
流行っているから。みんなが好きだから。と思い興味を向けてみるも
なにが良いのかわからない。なにがおもしろいのかわからない。
どれも非現実的な内容でそもそも理解ができなかった。
クラブ活動においても自分がやりたくて始めるというものはなく、
「〇〇ちゃんがやってるから」という理由で始め
到底のめり込めるわけもなく必ずといっていいほど途中でやめる。
今思うと、その場その場で過ごす同級生は居たけれど友達はいなかった。
私は孤立していた。
その頃から“普通になりたい”“普通にだったら孤立しないのに”
そんな思いが心の奥底に芽生えていた。
普通…一般的に…多数派…みんな…
大人になって社会にでて素晴らしい人達のもとで働ける機会があった。
年上の男性が多い土木系の会社だった。
彼らは私の能力を評価してくれるどころか私自身を肯定してくれるような
素敵な方たちで、おかげで私は私を徐々に理解し認めることができた。
私は私のままでいいんだ。
そう思えたのはこの時が最初で最後だった。
この職場で出会ったのが夫。
無口で無愛想だけどつまづいた時1番に助けてくれる人。
夫と結婚して、結婚してから私は夫の生態を知ることとなる。
夫はトラブル回避のため“普通”“一般的”“多数”“みんな”
それをまるで自分の意思かのように突きつけてくる
よく言えば保守的で普通じゃない私にとって厄介な一面を持っていた。
夫婦には話し合いが必要な場面が多くある。
そんな時に夫は多数派の意見をぶつけてくる。
私は必ずしも多数派が正解だとも思わないし、
むしろ真逆の意見がヒントになることもある。
そもそも正解は夫婦で導き出すものだという考えであった。
多数派とはそぐわない私の意見を言うと必ず聞き入れることなく否定。
夫から否定されると世間の大多数から否定されているような気持ちになる。
解決しない論争。詳細や深い考えを聞くと黙り込む夫。
まるで私が悪者みたい、、、。
そんなことの繰り返しで段々と私は自分を押し殺すことが増え顔色を伺い
夫に合わせた当たり障りのないことしか話せずになっていた。
私はやっぱり普通じゃない。普通じゃないとダメなんだ。
今はまだこの荒野から抜け出せずにいる。
人のせいにしたいわけではない。
でも人のせいにすることで楽になれることは知っている。
noteを通じて“自分”を取り戻す努力をすると決めた。
おわりに
最後までご覧になってくださった方がいましたら感謝を伝えたいです。
ありがとうございます。
私のnoteは今はまだ決して幸せな気持ちになれるものではないかもしれません。
変わりゆく気持ちを記していくので心が揺れ気持ちが変わることもあるかもしれません。
ご覧の通り文章力もまだまだありません。
長文だったり短文だったりばらつきもあります。
見苦しい点が多いかと思いますがフォローしてくださったみなさん今後ともよろしくお願いします。