落合陽一のデジタルネイチャーを読んだ

https://amzn.asia/d/0t4aRoK

本書は2018年に発行されたその時点の落合陽一のデジタルネイチャーについての考えを示したものである。
デジタルネイチャーという落合陽一の考えは現在もアップデートされ実践し続けられている。

その上で、あえて書籍デジタルネイチャーを読んだ感想を書く。

デジタルネイチャーの前に落合陽一は「魔法の世紀」という著書を発行している。
そこでは科学史、コンピュータ、メディアアートの歴史がみずみずしく綴られている。
そして、その最終章は「デジタルネイチャー」となっている。

「魔法の世紀」はリアルとバーチャルの対比構造が、コンピュータによって踏み越えられ、作り替えられていく世界です。とすれば、そうして作り替えられた「未来の世界を表す固有名詞」が必要になります。それこそがデジタルネイチャーなのです。

落合陽一 『魔法の世紀』 P180

 来るべき未来は、コードという言葉とそれを司る論理によってモノを操り、私たち自身と周囲の環境を変えていく世界になるでしょう。そして、ファンタジーに登場する魔法を思い浮かべればわかりますが、魔法とはまさに「モノを操る言葉」つまり呪文によって行使されるのです。
 その実現のために、僕は研究を続けます。いつの日か、コードという呪文と、コンピュータというマナによって、人間が世界の理を操れるようになり、この物質世界そのものを物語の中に変えていけるような、「魔法の世紀」が訪れることを信じて。

落合陽一 『魔法の世紀』 P207

chatGPTが人々の対話相手になり、普通の言語からコードを記述し
google colabで実行可能な世界。
Midjourneyで普通の言語から絵がかける。
2023年はそんな世界になっている。
すでに未来の世界デジタルネイチャーになりつつある。
そのことを2018年の落合陽一は知らない。
その上で、書籍『デジタルネイチャー』の記述に対して語るのはいささかアンフェアな気がする。デジタルネイチャーに関して語る場合は、現在の落合陽一の活動を通して考えるべきだろう。
しかしながら、やはり『デジタルネイチャー』には理解できないところがある。

『デジタルネイチャー』のまえがきは最高だ。小説のような山道ドライブの描写から始まり、
End to End、事事無礙法界、胡蝶の夢
と落合節が炸裂し、デジタルネイチャーの世界に連れて行ってくれる。

一方で、私が理解できなかったのが「AI+BI型」と「AI+VC型」に分化する社会
ということだ。BIとはベーシックインカム、VCとはベンチャーキャピタルを指す。

こうして、人々の労働は、機械の指示のもとベーシックインカム的な労働(AI+BI型・地方的)と、機械を利用して新しいイノベーションを起こそうとするベンチャーキャピタル的な労働(AI+VC型・都市的)に二極化し、労働者たちはそれぞれの地域でまったく違った風土の社会を形成するはずだ。

落合陽一 『デジタルネイチャー』 P58

機械の指示のもとBI的な労働をする人と機械を利用して新しいイノベーションを起こそうとする人に二極化する。
本当だろうか?
機械の指示のもとBI的な労働をする人とはどういう人なんだろうか?
大企業の事務職?SE?工場労働者?
トマト農家は、居酒屋の店主は、スイミングスクールの先生はどこに分けられるのだろうか?
VC型の労働をする人にBIは必要ないのか?私にはVC型の労働をするひとこそBIが必要のように思える。BIがあってこそ大胆に振り切れるのではないか。

そうではない、機械の指示のもと労働する人の労働そのモノ自体が機械を補佐する作業であり価値を生み出さないためそのこと自体がBI的だと言っているのだ。このような反論がくるかもしれない。
本当だろうか?
機械はサポートなしでは自立できないのではないか?機械の指示のもと働く人にもその価値があるではないか?

また、機械の指示のもと労働する訳ではないが、VC的でない人もいるのではないか?トマト農家や居酒屋の店主やスイミングスクールの先生のように

また、工場労働者についても考えてみよう。工場労働者は
機械の指示のもと労働する。/
機械を利用して新しいイノベーションを起こす。
どちらも体験しながら暮らすのではないか。
機械の指示のもとルーチンワークをしつつ、日々改善活動のためにAIを利用する。そうして小さなイノベーションを起こしつつ暮らす。
破壊的イノベーションを起こし世の中を一気に変えることはできなくても、日々創造的イノベーションを起こし続ける。
そんなことはないだろうか。

そんなことを考えると「AI+BI型」と「AI+VC型」の二極化はよくわからなくなる。
VCにもBIは必要だし、VCでなくても普通に暮らしている人もいる。その人の労働を一括にBIと言ってしまうのは乱暴ではないか?
別にBIという言い方をしなくても、「普通の暮らし」で良いのではないか。

人々はAIなどのテクノロジーによる生産性向上の結果BIを獲得する。
BIがあることで人々は自分の好きなことをでき、多様性のある社会が可能となる。

落合陽一が本当に伝えたいのはこのことだと思う。であれば、普通の人々の労働をBI的な労働と表現しなくてもいいと思う。

AIによってBIができた
AI→BI
AIと共に生きることで、破壊的イノベーションを生み出す人も、創造的イノベーションを生み出す人も、ただ普通の暮らしを楽しむ人もいる
し、同じ人でもそれぞれの側面がある。
二極化ではなくそれぞれ混じりながら人間は生きていく。
僕にはそんなふうに思えるのだ。

これまでの文章は自分が理解できなかった箇所の整理のために書いた。
最後に弁解しておくと、僕が落合陽一の現在の活動においてこのVCとBIの話はそれほど重要なこととは思えない。
そのため、これまで書いた疑問もただの揚げ足取のように思える。
現在、落合陽一が生成しているアート/プロダクト、発言などを追いかけながらデジタルネイチャーのことを考えるのがフェアな態度だろう。
東浩紀は訂正可能性の哲学でデジタルネイチャーの批判をしているが、現在の落合陽一の活動を網羅した上で、書いた方が良いのではと感じる。
いや、東は現在の落合の活動を理解した上で、落合にも次のデジタルネイチャーを書いて欲しいのではないか。
東が一般意志2.0を訂正するために訂正可能性の哲学を書いたように。

そのカオティックな自然は、言語による定義を経ずに現象から本質を取り出すことに長けている。

落合陽一 『デジタルネイチャー』 P22

chatGPTなどの大規模自然言語モデルがEnd to Endを繋ぎ、あらゆる事象が微分可能になった今こそ、落合陽一の新しいデジタルネイチャーが読みたい。そう思うのである。


いいなと思ったら応援しよう!