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食事会は、ちょっと合わないかも

先日、食事会に参加した。
気心が知れた人たちでと言いたいところだけど
ウエハースぐらいの壁はある集い。
それもそうで、仕事関係のメンバーなので
何でもかんでも話しましょうとはいかない。
そこは、親しき仲にも礼儀ありなので。

社会人になりたての頃は、
学生時代の友達や同業の仲間と集まって
ワイワイやる楽しさがあったが
最近では、計画段階でワクワクが萎む。
精神的成長なのか、
いま欲しているものと異なるのか。

何にせよ、「ご飯行こうね」
まではニコニコでスッと言葉を発するのに
その次のアクションからは、
口火を切った人間の責務で
店探しから予定調整まで虚無の顔で行う。
なんの感情も湧いていない、ただの虚無。

そして、
当日には朝から「何となく行きたくないなぁ」という気分。

30を超えるとそんなもの。
食事会に行ってしまえば楽しいものと
YouTubeの何かの動画で聞いたけど、
どうだろう。
毎回、ちょっと行きたくないなぁから始まって、会が始まればワイワイして最後は「あー、楽しかった」と言っている気もする。

何が嫌か分からない、
それが相手に失礼なこともわかっている。
けれど、行って何が嫌かを見極めてみる。
相手の問題ではなく
200%ワタクシの心の問題。

食事会が始まり、
ワイワイ、ガヤガヤ、ヒソヒソ、ウフフフ
ほうほう🧐。

ワイワイ、ヒソヒソ、ウフフフ、ヒソヒソ
なるほど🧐。

ウフフフ、ヒソヒソ、ヒソヒソ、ヒソヒソ
そういうことか💡

気が重かった理由が分かり腑に落ちた。
理由は3つ。

1.食事のおいしさに反比例する話の内容

食事会なのに、出された料理を
愛でる話ができないのが辛いからだ。
本当に単純なことだけど、
一生懸命料理を作ってくれた人がいるのに
それについて話ができず、
そして料理を台無しにするような話の内容が辛いんだ。

ただ「おいしいね」「おいしいね」と
家族といいながら食べる食事でも十分に満たされる。
家族と食べるマックの料金よりお高いなのに、
味がしなくなる。

どんな返事がいいのか、
次の話題は何を振ろうか、
次は誰のターンだ?とか。
自分一人が悶々としているだけなんだけど、
今の自分にはこの場は合わないのだと思う。

2.毎回、登場するあの人

ぺこぱの松陰寺がいるの?
「時を戻そう」なのか?
食事会のメンバーが変わったとしても、
あの人が登場する。

愚痴は大切。
頭では分かっているけど、聞いているのはちょっと辛い。
せっかく会えた時間が、残念なものになってしまう。
と思ってしまう。

自分も同じように言われているのかな とか、
もちろん言われているだろうけど、
不意にそれを実感させられる。

それ以上に、
自分の住む世界が狭いことに驚いた。
何だか、中学生に戻ったような気持ち。
あの狭い交友関係の中で、モゾモゾしていた頃に心が戻る。

むしろあの頃の方が、
昨日見たテレビ番組で盛り上がれるだけ良かった気がする。
本当は、そんなことを話したのかも。

3.友達を作る難しさ

食事会をするたびに「友達」が欲しいと思う。
拗らせてるなぁと思うが、これが本心。

仕事関係の人に求めることじゃないことは重々理解している。
今ある中から探すからこうなるんだ。
自分だって相手にそうオープンにいけないし、
こられても躊躇するだろう。

新しい世界を開く、
複数の世界の住人になる、
これからの自分の成長や楽しみのために
今後、意識しておきたいことの最重要項目になった。


では、どんなことを話したいのか
自分の欲求と向き合ってみる。

映画の考察話をしたい、
読んだ本の感想を聞きたい、
同じような状況の人の頑張りを応援したい、
朝ドラと大河ドラマの面白ポイントを交流したい。
今、挑戦していること、
学んでいること
こんなことあったんだぁ、笑ってよって共有したい

ちょっと待って。
全部noteでできそう。
結局、ここだった。
コメントってそういうことか。

会って話すばかりじゃない。
コロナ禍を経験したワタクシたちは、
新しい交流の方法を手探りできたんだから、
新しい複数の世界を持つことだってできそうだ。

会ったことはなくても、
コメントを書き込んで、返事があると
そのあと、どんな記事を書いているかなぁ
と覗きに行ってしまう。

今は、この交流がワタクシには合っているのかも。

8月note
また会いましょう。

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