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愛知県新城市 臼子城(うすごじょう)


国道301号線沿いに城跡の入り口があります

臼子城について
臼子城がある新城市の千郷地区は、大昔平安末期には熱田神宮由来の千秋氏が治めていました。千秋氏は稲木に住んでおりましたが、豊川沿いの豊島に移住しました。(通称野田館・現在の海倉渕付近)
そして鎌倉時代までに支配者が大伴氏、伴氏、塩瀬氏と変わっていき戦国時代には冨永氏が治めていました。しかしその後、奥三河は山家三方衆が力をつけていき、冨永氏の支配力が徐々に弱まってしまいます。そんな折、1506年富永氏の後継者が急死(自殺)し、相続の危機に陥り困った家臣(今泉氏)が遠縁にあたる田峯の菅沼氏から養子をもらうように話をつけます。そして野田城に菅沼家から三男の竹千代が入り、菅沼定則(初代野田菅沼)と名乗ります。
それに先立ち、田峯菅沼氏が作手の奥平氏と協力し、作手亀山城の砦(出城)として築いたのが臼子城です。
(現在残っているのは井戸の跡と、自然の土塁です。)

発掘調査で縄文時代遺跡「東平遺跡」があったことがわかっています。

1184年、(平安時代末期)千秋氏の命で、豊島地区から森下一族が東平に、老平一族と永井一族が山口に移住し開墾していきました。この臼子地区は作手への道筋で、当時、いえ、もっと以前から重要視されていたようです。
1506年の臼子城築城とともに作手から奥平氏が下りてきて移住し、後に1573年越前から河合氏、熊谷氏が移住しました。

臼子城の立場
臼子城は作手亀山城の出城だったため、常に亀山城の影響を受けたようです。興味深いのは城が存在していた85年間に、岡崎の松平清康・広忠、駿府の今川義元、尾張の織田信秀・信長、甲斐の武田信玄・勝頼、徳川家康、豊臣秀吉といった歴史的に有名な人物の影響をもろに受けていることです。しかも、彼らの生死によって臼子城の支配者がコロコロと代わっています。だから臼子城の歴史を調べれば三河地方の戦国時代の勉強ができるのです。
勢力の強い大名に翻弄されながら時には一族が敵味方となって戦うことがあっても必死で生き抜き「家名」を守ろうとしたのは臼子城に限らず、長篠城、野田城、新城古城など、立場はみな同じだったようです。
城代(佐宗氏、奥平氏、菅沼氏)
天正3年(1575年)の長篠の合戦後、徳川家康の命により長篠城の城主が奥平貞昌になったため、臼子城の城代は佐宗重昌から奥平一族の奥平久嘉に代わり、以後廃城まで城代を務めました。家康が秀吉に江戸に配置換えを命じられた時、奥平貞昌をはじめ臼子城の重臣を江戸に連れていったため、臼子城は廃城となりましたが、奥平久嘉はこの地に土着、帰農したようです。
ちなみに、先代の城代「佐宗重昌」は、長篠の戦いにおいて敗走する敵の武将「馬場美濃守」を討ち取るという武功を挙げたといわれています。
また、家康と共に江戸に下った奥平貞昌の子孫は後の1717年、九州の中津城に配置換えとなり明治維新まで居城としていたといいます。中津城は廃藩置県の時に城を取り壊し天守閣だけ残してあったが、西南戦争で焼失。それを昭和39年に旧奥平藩主が中心となり寄付金を集め天守を再現したようです。

臼子城で忘れてはならないのが、菅沼定継の存在です。彼は今川氏の支配から反旗を翻した際、臼子城を攻めた記録があります。多数の死者が出て城の北の山に大塚が築かれました。こんな小さな山城でも悲しい戦があったのです。

交通
当時、臼子から作手に抜ける道は3本あったといわれています。
・今の竹生神社から臼子城の北を通り和田堺から作手田城に抜ける道、これは現在の301号線の原形のようです。
・臼子城から北側の山を登り御前石道に合流する道、これは坊主街道、おっさま街道ともいうようです。雁峰山のほぼ稜線を歩く道です。
・竹生神社から、臼子川の右岸を通り、城ヶ峰に登り、稲木からの道と合流して田代に抜ける道(合流地点を臼子辻という)臼子辻は現在、新東名高速道路の臼子トンネルの出口上にあたります。

臼子辻から和田堺に抜ける道を戦国武将が通った記録があります。
武田軍が、足助から作手経由で野田を攻めたとき、野田を見渡せる峠で駐屯しました、当時は牧草地で高い木がなかったため、武田軍の長旗が山を埋め尽くしている光景がふもとから見えたというので「長旗峠」というようになった峠です。武田軍はその後臼子辻を下り「城ヶ峰山」に駐屯したようです。その記録(野田戦記)を読むと、作手からふもとの城(大野田城)までの山道を夜通し案内した地元の武士たちの様々な思いが伝わってきます。

この臼子城跡は、つい先日の三河地方の大雨の影響で北側が崩れてしまいました。そのため、現在墓地となっている檀家の人のみ気をつけながら登っていく状態です。


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