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「言いかた」よりまずこちらが大切なのではないかしらん
サブスクで珍しく恋愛リアリティショーを観た。ショーだしカメラという第3者の介入はあるにせよ、それぞれの本心や思考の癖がリアルに出ていて、まだ途中だがとても面白い。
ストレートに物を言う彼女と、オブラートに包んで話す彼とのズレを見て思った。言いかたがきついとか、反対に結論までが長いとかが問題になりがちだけど本質はそこではないのじゃないかな。自分の投げた言葉が、そっくりそのままの重みで相手の真ん中に届いていないズレがより重要な問題なのかもとふと感じた。
相手の中心点に届く形の言葉に変換できているかどうか、相手が食べやすいお菓子に作り変えられているかどうかが。
だから極論、ストレートに言おうが、回りくどく言おうが、相手が咀嚼できる言葉で中心点に届きさえすればまず良くて、そこから「でも(感情的に反感を買われにくい/余計な言い争いの芽が出ない)言いかたを考えよう」の話し合いが始められるのかもなぁ。
だって、作品の中で彼女が「私と一緒にいたくない理由があるならいい加減はっきり言いなよ!!」と直接的に言ったとき、彼は「いや、実は何度か理由を伝えてみたことがあるんだ。覚えてる? それに今の言いかたはよくないよ」と答えていた。番組を進行しているMC陣も視聴者である私も、言いかたはどうであれまず双方届いてないねってなった、そもそも会話がズレていると。
ズバッと言っても伝わらなかったら「相手に寄り添えていない」になるし、オブラートに包みすぎて相手の手前で落ちたら「この人の言ってること理解できない」となる。
なぜかこの世には、ストレートに言うと(相手が傷つくかは置いておいて少なくとも)伝わりやすいという幻想がある気がする。的を得ているけど言い方がよくない、は比較的起きやすいが、そのうちの大半は、案外ちょっとだけ的を外れてたりするのだ。たとえば一方がテーブルに腰掛けていてもう一方がこたつに入っているなど、同じテーブルに実は座っていないことに気がついていなかったりする。
正論だから反発してしまうってものがあるにせよ、正論=中心点ってわけではない。正論は一般論の側面が強くて、お互いの話し合いに必要なのは2人きりの正解だ。
つまるところ、差し出した言葉が一番核の部分に届くこと。そこがまずできていないのに、微妙なズレに気づかないで本質の周りを2人してぐるぐる回っているだけの場合って多いのかもなぁ。永遠に交わらない二つの結構どうでもいい平行線の解決に躍起になっているというか。
私含め、ストレートであれカーブであれ相手に届く言葉に変換して中心点にビタッて届ける心がけが十分ではないのかもなと思った。
ーーもし、相手や自分の中心点に届いたとして、それが本当の本当に的を得ていたとして、その言葉についてどう反応するかは個々人の資質や度量に左右される。経験値にもよるだろう。届いたあとの振る舞いはまた別の話だ。
でも少なくとも、本当に重要な話し合いの場面で話し合っているようで話し合えていない状況や、本質から随分離れているのにまず言いかたに注目して争っていては、いい方向に進まないのかもな。
今日から少しずつ、言いかたよりもちょっとだけ「中心点に届く言葉」を意識してみようと思う。頭を使いすぎて疲れてしまいそうだから、少しだけと決めて、こっそり相手の性格や考え方のくせを知ろう。例え話がその人の好きなチョコかもしれないし、強く来すぎる相手には、普段の雑談の場面で好きな料理を探ってみてもいいかもしれない。
すぐには上手くいかなくても、意識するのはきっと大切なことだ。
ひとまず今日もご飯を食べて、お風呂に入って、眠ろうと思う。中心点に届いた言葉を受け入れられるかどうかって、単純にその日の体調にもよるだろうし。
番組に出ている2人のカップルがそれぞれ望む結末を迎えられますように。