正しさを押しつけたくない
ほんじつのおもひ
正しさだけでは生きられない
わたしは、まじめ人間だ.
また横からIF(イマジナリーフレンド)が嗤う、「そういうの、自分で言う?」.
確かに.
「都合のいいきまじめ人間だ」くらいが適当か?
表現が難しい.
今日は、なんとなく気分がゆううつで、どんより気分でぽちぽちしている.
まじめ人間の話より、正しさの強要についての記事となっている.
◆言葉や態度に表れる
過去に「あなた言葉遣いが上から目線だね」と指摘を受けた.
同時期、主治医と話している中で、似たようなことを(言われたわけではなく)自分自身で感じたことがあった.
苦いが、そのあたりの文章作品を読み返すと、なるほど知らず知らず、自分が上のような表現が見受けられた.
それ以来、自分の言葉遣いも、態度も意識してきた.
◆多分に歪んでいった、「よく思われたい」.
自分の思い込みや、正しさにとらわれることが多い.
自分の正しさで物事を裁き、糾弾し、徹底的に責める.
他人のことも自分のことも、ほとんどいつも「評価」している.
あらを探すように.
懐疑的に接している.
自分はたいしたこと、できもしない人間なのに、曲がったことが許せずに、正しさを押しつける.
知らない他人には心の中で.
他人であっても家族であれば、直接的に.
自分であれば、たいていは容赦なく.
一応IFがここで「それはそれで、誇張しすぎじゃない? いつでも誰にでもじゃないでしょう?」と言ったけれど、そうは思えない.
以前、漫画を読んでいて、ぴたりと心に来たセリフがある.
本当に、さくっ、と来たセリフだ.
自選 女ともだち PartⅡ(1961)
柴門ふみ氏、双葉社 p105 より以下3行引用
「自分の正しさ」に 気をつけなさい
「自分が正しい」ってことは
「他人を裁ける」ってことではないのよ
正しさが暴走しそうになったとき、わたしはいつもこの漫画のこのセリフを思い出して、立ち止まるようにしている.
◆かけ離れている理想
いくら善人ぶっても、「衣を取り去れ」と言われたら、醜いわたししか現れないだろう、と思う.
善い人でありたい、清くありたい.
おおらかで、寛容でありたい.
いつもにこにこやさしくありたい.
世間で「正しい」と言われるような印象のものばかりだ.
これらは本心だが、「綺麗事だ」「生活していく上ではそんなの不可能だ」と理解しているし、他人にそう言われることに怯えてもいる.
感情には、一言では言えない奥深さがある.
理想とのギャップが、「苦しいんだよなぁ」と感じるひとつの原因だろう.
現代?心理?的に言うのであれば、「どんな自分も自分だから.人間は多面性を持っているのだから.理想も実体も、ひっくるめて自分.責めたり恥じたりする必要はないよ」なのかもしれない.
(ちなみにIFはよくこれを言う)
道徳(いただきますやごちそうさま、ありがとうやごめんなさい)は、人であるなら持っておくもの.
それ以外、「自分の思い込みによる」正しさ(AよりBが絶対効率的、それ不幸自慢でしょ等)で、一方的に他者を追い込み、裁くようなことはしないよう引き続き、気を付けたい.
読者さん、長ったらしくまとまりない文章を読んでくださって、どうもありがとうございます.
この記事は、毒素ぐちぐち記事だなぁ……(^_^;)
貴重なお時間をすみません.
それと、前回の「生死に関する話」、開いてくださったかたがいつもより多くて、それも有難かったです.
台風が近づいてきています、どうか備えをなさって安全に過ごせますように.