平等という名の不平等
22歳の1月のこと。最初の手術直後のこと。
退院した私を待っていたのは、実技試験・筆記試験・レポート課題の山だった。
時期的なのもあり、それは物凄い量だった。
まだ身体も心もままならない。
それでも息つく暇は無かった。
あるレポート課題は退院3日後が締め切りだった。
期間は2週間。
私が入院した数日後に出されていた。
私は知ることができていなかった。
知っていても取り組むことはできなかった。
私は退院直後に課題の存在を知った。
すぐに担当教員の部屋に向かった。
直談判に行った。
私の病気の事情も知っているから話して解決できると思っていた。
私は事情を説明し、皆と同じ期間を頂きたい旨を相談した。
教員から出た言葉は「みんな平等だから」だった。
私は狐につままれたような気分だった。
誰のための平等なのか一瞬後で理解した。
医療福祉系の大学の教員がその平等を振りかざすとは思っていなかった。
まさかその一言でこれから同じ道に出ていく学生を突き放すとは想像していなかった。
もう少し話が通じると思っていた私は甘えていた。
平等とは、医療福祉の世界では健康で時間も身体も自分のために使える人間のためのモノだった。
ビョーキの人間は平等に含まれてはいなかった。
私は没頭した。
すべてを一発で通した。
不平等なままで乗り切った。
平等の中にいながら、時間も身体も十分にありながら、ほとんど全員が何らかの再試験・再提出になっていたことを後から知った。
私は健康で平等な人たちをもう無理に理解しようとはしなかった。
術後の大切な時間を何時の間にかやり過ごしてしまう。
本来自分の身体を省みて過ごしていたはずの時間を、思いもよらず引き延ばしてしまう。
その後の約1年間、私は自分の身体と自分のすべき事に没頭し続けた。
そうせざるを得なかった。
他に余所見している余裕が無い状態にずっといた。
それは辛く険しかった。
だがそれは思いも寄らない幸運だった。
周りは関係無い。
環境も関係無い。
何のせいにもしない。
ただ為すべきを為す。
ただそれしかできないという状態。
奇しくも私は、手術が必要な状態になってようやく“身体と私”になっていった。
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