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将棋がスキ!息子に勝てない…大人が今持っているものは時間と引き替えに得たものかも。
6歳の息子が、保育園で将棋で遊んだと言い出したのを機に家でも親子で将棋を指すようになって半年も経たないと思う。
私は初心者。
ずっと、将棋が指せる人に憧れている。
かっこいい。
息子がかっこよくなるといいなと下心を抱き、将棋教室へ連れて行ったり、将棋番組を見たりしていた。
そしたらどうだ。
息子にすっかり勝てなくなってしまった。
最後に勝ったときのことを思い出す。
あの時息子は、将棋アプリ「ぴよ将棋」を指しながら片手間に私と指して、ぽかミスをしただけだ。
その前も、息子がやったくだらないぽかミスか反則で勝った気がする。
おいおい…なんてこった。
もうハンデをつけてもらわないと勝てない気がする。
なぜなら、私は自分の飛車と角をほとんど使った覚えがないからだ。
序盤に取られてばかりいる。
桂馬と香車も似たようなものだ。
息子が強くなるのは、よいことだ。
できるなら、将棋が好きな友達や世界を広げてくれる先生たちに恵まれて、充実した時間を過ごしてほしい。
しかし、このなんともいえない気持ちは何だろう。
子どもの成長は早い。
しかし翻って私はどうだろう。
言い訳はいろいろできる。
鍛錬の時間がなかなか取れないから?
それもある。
頭の容量が空いてないから?
それもあるだろう。
今から息子と同じ時間頑張っても(それがそもそも物理的にむり)、息子よりも、早く、しかもより強くなることはないと思う。
成長する身体と脳みそ、時間、広がる選択肢。
それは子どもの特権だ。
大人は緩やかに、豊かに成長はできるだろうけど、流石に新しい職業を確立するような進展は望めない。既に膨大な手間暇とお金をかけて多くを手にしており、それらを維持したり育てたりして大事に使っていくのみ。
これから誰かに与えられるものが少しでも長く僅かにでも残ることを祈ってしまう。
子どもには無限の可能性があるとはよく言ったものだ。
教育テレビのキャラクターの歌にもある。
なんだってできるし、なんにだってなれる。
壁にぶつかってもへっちゃらだ。
他の可能性が広がっているだけ。
時間という資源は恐ろしい。
何もしてなくてもしても、なくなっていく。
決して取り返せない。
そして、大事に使えば、職業や趣味、家族や恩師や友達、そんな一生の味方になる存在を作り出してくれる。
息子の可能性が楽しく広がるよう、時間を使ってもらいたいものだ。
そのサポートをしていきたい。
一緒に将棋番組を見たり、本で学んだり。
先生のところへ連れて行ったり。
そのうち、親ができることなどなくなってしまうかもしれないし、将棋に興味がなくなるかもしれない。
でも、また、そこに新しい可能性が広がるだろう。
私は、既に過ごした時間と引き替えに得たものを、そのために投じていく。なんて贅沢なことだろうと思う。
そのおまけに、私も将棋がちょっぴり強くなったらラッキーだ。
今日、ぴよ将棋に苦戦する私に息子が助け船を出してくれて勝利した。
息子は私に一言。
「ママが弱くて可哀想だったから」
息子をサポートするどころか、息子に哀れまれてしまう私であった。