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コロナ禍を通して得た感覚あれこれについて考えた
今はアフターコロナ?
コロナ時代って終焉したのかな。
世間についてけてない痛いアラフォーな私。
夏休みに新幹線で移動の予定があったが、昨日まで台風の影響で運休したりなんなりで再開してもおぼつかない。すでに出発時刻は過ぎているが遥か前の便さえまだ出ていないので慌てず待機する。
ふと思う。
コロナを通して私も社会も?変わったような。
そんなこともあるさ〜
例えば天下の新幹線が運休に遭ってそれもお盆で、押し寄せた人並みがテレビに映っていて自分もこれから乗ろうとしていたら。
以前なら「えーあり得ないー!いつ動くのさ」と思いながらテレビを睨んでいたかもしれない。
今は、「へ〜そんな事もあるよなあ、、、身の安全第一だ。時間まで待とう。あとのことはどうにかなるさ〜」
てなもんだ。
昼は行った先で食べる予定だったけど、運が良ければ車内、だめならうちで食べてからか。洗い物めんどいし、コンビニで買えばいいかな」といったようにお気楽である。
何かが起こっても、今の方が幅広く受け入れることができる気がする。
あれだけのゴタゴタがあったからまあそうか。
安全第一思考
忘れもしない2020年3月。
外に出るのも怖くて家族でずっと家の中にいた。
Amazonの配達の人、生協の人。
近所のお弁当を作る定食屋さんや居酒屋さん。
電気屋さんガス屋さん水道屋さん。
ありとあらゆる、生活を支えてくださる方々に感謝した。
健康と生活の優先順位が何より先に来て、旅行だの贅沢だのはできるときに考えよう、そんな気分になった。
旅行も行ける世の中にはなったけど無理にとも思わない。それに、どんなに計画して、どんなに高額でも、家族の誰かが体調を崩せば躊躇なく取り止めにすると思う。
家族揃って日常生活が送れるありがたさを知ってしまったからだろうか。
人それぞれさ
飲み会も開催されず、オフィス通勤もなくなり、表向きの顔を剥いでもあまり問題なくなったように思う。
私の周りだと、オフィスが解禁されても、週数日推奨というようなゆるい基準で、来ないからどうとか来たからどうもかあまり関係なくみんなそれぞれの道を行っている。
例えばマスクをつけなくてよいと言われた時、つけ続けるひとも外す人もいたけど、それぞれの判断で…と言う世界になった。
従来だと、周囲に合わせるのがベスト、という状況も合わせようにもみんなそれぞれだなあと落ち着くことが多い気がする。
これは良し悪しありそうだけど、ワーママという分類にいる私には好都合のことが多い気がする。いつまで許されるかわからないけどゆるーく世間に忍び込ませてもらっている。
世の中も多様な価値観を認める方向にゆっくりでも進んでいるように思う。
自分を偽らない
ありのーままのー姿見せるのよー
と言う歌が流行ってかなり経つ。
ありのままで生きてますか?
コロナを経て「起こったことがすべて」と強く思わされる。その人にとって起こってもいないことに合わせろというのも無理がある。であれば、こうあるべきとか、普通はこうとか、言うなれば架空、仮定に自分を寄せていく必要もそんなにないんじゃないだろうか。誰でも。
2020年に入学した学生は入学式もなかったり、部活の大会がなかった世代もあるし、本来はああだこうだと言っても、それを体験した人にとっては「起こったことがすべて」だろう。
異なる体験をしているひとには異なる価値観が根付く。何がレギュラーでイレギュラーかは傍に置いておいてその人の体験したことはその人にとって絶対だから、それを認める余裕を持ちたいと思う。
逆に周りに指摘され自分がおかしいのかな?と思っても、あまり否定する必要もないなかなと思っている。
終わりに
コロナを通して得た感覚をまとめてみた。
歳をとったせいもある気もしつつ、やはりコロナをきっかけに内面が変わったと思うことが多い。そして過去より楽に生きている気がする。
これからどうなるかわからないけど、どうか、誰もが心がのびのびできる世界を生きられますように。