子どもに教えられたこと。私ったら、いつからこんなにつまらない大人になったんだ?
以前、小学生になり「何かを書く」機会が頻繁に訪れる息子が、てきとーになんか書くのに苦労しているとこぼしていた。
自分が本当に言いたいこと、そんなコアな場所に辿り付く必要はないから、とにかく「書ける」こと書いちゃいなよ、作家にでもなったつもりでさ〜、というのが当時の願いだった。
しかし、人の心とはそんなに単純ではないのである。
とある休日。
息子の塾の国語の宿題に付き合っていた。
国語の問題、しょせん小学2年生の…となめてかかった私。1問目から唸らされる。
「ぎんいろの空とはどのような空ですか」
と言う問題だった。
ぎ、ぎんいろ…
すでに投げ出しそうな息子に「まずね、空について書かれた場所を読んでみよう」などとえらそうに話し始めた私は気づいた。空についての具体的な記述は「雨」というひとことだけだったのである。
私は、息子に問うてみる。
「雨の空ってどんなふう?」
そもそも、こんな質問している時点で私の指導力は最悪である。
言葉に詰まる息子をなだめて、ひとまず続きの問題に取り掛かった。そして、最後の問題にまた舌を巻いた。
「あなたは、小鳥になんと言いたいですか」
これはもう、国語のテクニックではない問題だ。本文にある内容をもとに、自分の気持ちを捻り出す…小鳥に、なんと言いたいのか?正解のない世界。ぐぬぬ。
息子はぽつりぽつりと語り出した。
「ぎんいろの空は、雲があって、太陽もある。太陽は隠れていて、うっすら細い線のような光が差し込んでいる。雲の隙間に光っている。」と言うような内容だった。
私は息子の思い浮かべる情景の豊かさに驚いた。そして、悲しくなってしまった。テキトーに書けばいいのにと言った私の頭にあった解答例が…「雨雲が広がる空」だったからだ。しょぼすぎて話にならない…
息子の空は、たしかに銀色で、そして物語を語るに十分なリアルさがある。ただ、それを文章に落として書くところまで至っていないだけ。
「書かないと0点だよ」などと、過去にえらそうに言っていた自分が恥ずかしい。
なんとか、息子の語るぎんいろの空を、息子がかける文章にしなくては、と、まだ意地汚く粘ろうとした私は、あの手この手で促した。結果、太ようをさえぎるあつい雲がかかった空、最後はそんな内容にまとめた気がする。
当然、息子は納得していなかった。むしろ、絵でも描いて提出したらいいんじゃないかと思うくらい素晴らしい描写が頭の中にあったのに、書いた途端に頭の中より明らかにグレードダウンした空を、息子に生み出させてしまった自分に腹が立った。
最後の小鳥への言葉はどうなったのか。
これもまた時間がかかりすぎてイライラした私は「よい場所を教えてくれてありがとう」みたいな、とってつけたようなセリフでも書いて済ませておけばいいのに、と暴言を吐いた。
息子はあーでもないこーでもないと言いながら「これからもよろしくね、またいいことおしえてね」と書いていた。
また小鳥に会おうとしてること、ちゃっかりまた世話になろうとしていること、そんな、息子のお茶目な面が見えてくる。息子は、小鳥と対話してたんだなぁ、と思う。
おもて面だけそれっぽくまとめるだけの私。
対、
物語を思い描き、その中に自分を置いて物語を体験する息子
出来上がった解答は、たしかに私の方が充実しているのかもしれない。けれど、心で言葉を吸収し、物語を感じ、新しいアイデアを生み出しているのはどちらだろうか?私の完敗である。
解答欄を埋める技術はいつか必ず必要になる。
でも子ども時代に大切にしたいことは、それだけじゃない。
まずは、息子の力を認めて、褒めて、その世界観を私も楽しもうと思う。
つまらない大人になりたくない!
(同時に、国語の力の育て方は先生を頼ることにしよう、と思った)