子どもの未来はどうなる?雨の月曜日に雨音を聴きながら楽しいことを考えてみたら結局子どものことばかり。
最近息子が何かと怒るので我慢比べだ。
将棋アプリに熱狂しiPad が熱暴走して「こんなiPadいらない!アプリ消して!」と言ったり。またある時はピアノ練習で少し間違えると「出来ない!ママの教え方が悪い!」と言ったり。
年齢が上がると、やることなすこと難易度が上がるから怒れるのもわかる。一歳の次男に比べ自分ばかりが注意されたり怒られたりするので自分はいけない子だとたまに落ち込んでいる。
言いたいことが言えず家の外でうっぷんを晴らすより家で怒るくらいはいいかなと思ったりもするが、受けて立つにもこちらの心の余裕が必要だ。
私は子どもの頃「大して頭もよくなく容姿もよくなくこの世に生み落とされ、不利なレースで頑張らさせられて、納得いかない!」と親に訴えたことがある。当時は「親に口答えなど許さない」という時代だから当然、そんなことを言うのは親不孝者で話は終わった。
今の子どもたちから「こんな困難な時代になぜ、ぼくは産まれたんだ!」と問われたら、正々堂々と反論できる大人はどれくらいいるだろう?
勝手に産んでおいて、資産とか頭脳とか容姿とか全て平凡で、愛だけは十分にあるからって「幸せになってね」では子どもも気の毒に思うチキンな私。
そりゃ、少子高齢化は子どもにとって好都合なこともあるかもしれないが、技術の進歩や日本の弱体化で子どもたちへの要求は過去より高度になるしなあ、と暗澹たる気持ちにもなる。
だって、私が子どもの頃と今の子どもはやらされてることが全然違う。こんなこと、当時はできなかったと思うことばかり。学校の勉強も難しくなっているような?
怒り狂う長男を見て、ああ、たくましく、自分の幸せを追いかける子どもになってもらわねば、そのために私は何をすれば?と頭を抱えてしまう。別に人に迷惑をかけなければ、怒ってもいい。ただ、自分でそこから立ち上がる力をつけてほしい。世の中はうまくいかないことの連続だ。あまり有能でない母親の血を分けてしまったこと、胸が痛い。
月曜日から雨ってよくある。
こんな日は明るいことや楽しいことを考えたいものだ。
息子のおやつは何がいい?
今人気のあるアニメは何?
将棋のタイトル戦のスケジュールは?
次の相撲はいつから始まる?
晩ごはんのメニューは何にしよう?
1歳児の靴下はそろそろ電車のにしようか?
今週の週末は何をしようか?
保護者会でみんな面白いと言っていた絵本が面白そうだな。
ボーナスの使い道は何にしよう?やはり使わずに子どもたちのために投資なり貯金に回そうか。
あれあれ、私の頭の中は半径10メートルくらいしかないようだ。それも子どもたちの喜びそうなことばかり。それも、楽しいと言うには疑問なことばかりではないか。なぜ、こんなことになるのだろう。
私にとって、楽しいこととは子どもたちのことを考えることなのか?
子どもたちは大変な時代を生きているのに親は呑気なものだ。
先行き不透明な世の中でも、生きていればいいこともあるさ。そんな考え方も悪くない。もちろん努力は必要だ。しかし、しっかり備えても、どうしようもないこともある。そんなとき、「立ち上がる力」がものをいうのではないか?うまくいかないと怒る長男は立ち上がる練習をしているのだろう、がんばれがんばれ!そう思えばこちらまでイライラせずに済むだろうか。
いつか、子どもたちがこの家を巣立つときに、「家はめんどくて嫌なこともあったけど、まあまあ楽しかった」くらいに思ってもらえたらいいなと、これまた呑気なことを思う。そんな長期プロジェクトを私は担っているようだ。
楽しいことを知らない何処かに探しても見つからないわけだ。
悔しいけど、いくら息子に怒られても、このぐちゃぐちゃしてイライラした生活に今の私の幸せがつまっているのだから。
子どもたちの未来のために今私ができることは、私の楽しみを突き詰めることだったという結論に終わった。
ちゃんちゃん。
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