物語の作り方 No.16
第8回 文体とレトリック
1)文体とは
文体とはその時代(ジャンル)の文章に特有な表現様式、あるいはその作者が素材をいかに形象化するかの方法(狭義では、表現技術の上に見られる特徴をさす)と三省堂の辞書には記載されています。
この場では、作家の表現技術の特徴を取り上げます。
小説やエッセイを書くとき、書き手は自分の言葉で文章を綴らなくてはならないとしばしば言われます。ここでいう自分の言葉とは辞書にない「方言」や「カタカナ英語」、「造語」、「流行り言葉」をふくむ、国語辞典に載っている日本語をさします。日常的に使用されている言葉のどれとどれとを選び出して、どう組み合わせるかによって、「独自の文章」=「文体」をつくることができると思っています。
2)文体の種類
①美文調の文体
彼の顔には何か暗い優越感と謂ったものがしじゅう浮かんでいた。それは多分傷つけられるにしたがって燃え上がる種類のものだった。落第、追放。……これらの悲運が、彼に何の意欲? 私には漠然と、彼の「悪」の魂が促す意欲があるに違いないと想像された。そしてこの広大な陰謀は、私自身にすらまだ十分には識られていないものに相違なかった。 三島由紀夫「仮面の告白」
傷つけられるにしたがって燃え上がる種類のもの、悪の魂が促す意欲、広大な陰謀。これらの比喩によって、主人公の「私」が「彼」に惹かれていくさまが語られます。同時に、読者を作者の意図する世界へ引き入れていく――。
読み手は、読みながら作者の思考に思いを巡らします。漠然と思いは伝わるのですが、手に取るようにはわからない。しかし、理解したいと思う。その過程で、読者は書き手と意志の疎通をはかっているような感覚にとらわれます。
比類なき作家・三島由紀夫は初期の「仮面の告白」から晩年の「春の雪」に至るまで端麗な文体を貫き通しました。
音曲の道に精根を打ち込んだとはいふものの生計の心配をする身分ではないから最初はそれを職業にしようといふ程の考はなかったであろう後に彼女が琴曲の師匠として門戸を構へたのは別種の事情がそこへ導いたのであり、さうなってからでもそれで生計を立てたのではなく月々道修町の本家から仕送る金子の方が比較にならぬ程多額だったのであるが、彼女の驕奢と贅沢とはそれでも支へきれなかった。
谷崎潤一郎「春琴抄」
ご存じの方も多いと思いますが、美しく非情な春琴に生涯を捧げる奉公人の佐助の物語です。直喩も比喩もみられませんが、センテンスの異様な長さ(これで一文)によって、まさに音曲のような文体が形づくられています。古典への造形が深かった谷崎ならではの作品です。次から次へとつらなる言葉を読みくだすことで読者に快感を感じさせる効果があります。
三島由紀夫はドナルド・キーンという名翻訳家を得て、欧米に知られる存在となりましたが、谷崎潤一郎は文豪と称されながら国内での評価と賛辞に甘んじなくてはなりませんでした。そんなささいなことは気にも止めなかったかもしれませんが、谷崎の流れるような文体の美しさをそこなうことなく翻訳することはむずかしかったのではないかと思います。英語を解さないわたしが言うのもおこがましいのですが、シェイクスピアの戯曲を翻訳しても、原文のリズム感が失われているように思えません。ハムレットの有名な台詞、「生か、死か、それが問題だ」など好例ではないでしょうか。
世界に誇る日本の恋愛小説「源氏物語」は翻訳されましたが、「いずれのおんときか――」ではじまる文体の美しさが伝わったかどうか……。どの作品にも言えることですが、古典文学の書き出し部分の美しさは比類のないものだと思っています。
谷崎作品をもう一作「痴人の愛」を例文にあげておきます。この作品は従来の谷崎作品には見られない直截な表現で書かれています。
芦屋に文豪の邸宅が移築され、展示物もありました。その中に、「痴人の愛」のモデルとなった女性の写真があり、西洋人と見紛う美人でした。枯れ山水の庭に面した和室に小さな文机が置かれていました。原稿用紙と万年筆のスペースしかない。
晩年、口実筆記になったとき、助手が辞書をひくことに腹を立てたそうです。鉛筆で下書きをする必要もなかった文豪の頭の中には辞書があったのです。三島も谷崎も英語を解していました。
自信がなくなると仕方のないもので、目下の私は、英語などでも到底彼女には及びません。實地に附き合っているうちに自然と上達したのでせうが、夜会の席で婦人や紳士に愛敬を振りまきながら、彼女がぺらぺらまくし立てるのを聞いていると、何しろ発音は昔から巧かったのですから、変に西洋人臭くって、私には聞きとれないこともよくあります。さうして彼女は、ときどき私を西洋流に「ヂョーヂ」と呼びます。
あと一人、典雅華麗な独自の美的世界を構築したと評される、秦恒平氏の「蝶の皿」の書き出し部分を例文にあげておきます。
呼びもどそうにもお名前も聴かいで、あのような夕暮れ過ぎた時雨の道へお見送り、もう何を待つあてもないと、つくづく気落ちしてしまいました。法然院から裏山越えにくる風と雨が心凄う、よう寝られずに割れた皿の残る一かけらを夜一夜ながめあかしますうち、いつか、庭一面の月かげに惹かれて、泉水のきわまでも立ちまようようでございました。
私事になりますが、若い頃は、疾走感のある文体の小説が好みでした。遠い昔、秦恒平氏の代表作「清経入水」に目を通したとき、どこがいいのかわかりませんでした。退屈だったのです。年齢を重ね、ほとんどのエンタメ小説を処分したとき、なぜか、昭和五十一年に買った文庫本、「清経入水」は手元に残しました。浅い夢を見ているような文体は、月を映す静かな波の上に浮かぶ舟の舳板に立つ清経のはかなくも美しい姿を彷彿させる気がしたのです。
②平明な口語体
仙吉は神田の或秤屋の店に奉公して居る。
それは秋らしい柔らかな澄んだ陽ざしが、紺の大分はげ落ちた暖簾の下から静かに店先に差し込んで居る時だった。店に一人の客もない。帳場格子の中に座って退屈さうに巻煙草をふかして居た番頭が、火鉢の傍で新聞を読んで居る若い番頭にこんな風に話しかけた。
志賀直哉「小僧の神様」
作者は絵画を描くように店先を描写しています。曖昧な表現や、難解な比喩で読み手を幻惑することを避け、読み手の頭に言葉が直接に働きかけています。
坂の中腹あたりから商店街がみえはじめたとき、雑然とした店々の看板や装飾が一つ一つ、ある力強い手ごたえをもって眼の中に飛びこんできて、私はふところの中の紙幣が、水から上がったばかりの魚のようにイキイキと躍動するのを感じた。
安岡章太郎「陰気な愉しみ」
この文章もわかりやすい。だれもが理解できる比喩を使うことで、読みやすさと同時に躍動感を感じさせます。
楽屋の出入口に十数人の女の子らが群がっている。セーラー服姿も何人か目につく。
笑々亭楽助は立ち止まった。そこを通らなければ外へ出られない。次の高座に上がるまでの時間つぶしに、パチンコでもするつもりだった。
〈難儀やな〉
ジャンパーの腕を組み、舌打ちした。この女の子達の群れを突破するにはどうすればよいか、つかの間、思案した。
難波利三「芸人同穴」
はじめて難波先生にお目にかかった日に、「地の文が冗舌すぎる」とご忠告いただきました。なんのことやらわからないままに月日だけが経ち、いまもこうして意味不明の文章を書いています。
無駄な表現をしないことが、文章を書く上でどれほどむずかしいことなのか、いまも難儀しております。
③軽快な文体(冗舌体)
智に働けば角が立つ。情けに棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
夏目漱石「草枕」
だれもが実感する日常の憂欝を、漱石先生は弾むような文体で導入部分を表現しています。覚えやすく、暗唱するのにもってこいの文体ですが、いざ物語に入ると文体は一変します。
智の働きが年毎に鈍くなるわたしには、文豪の意図するところが理解できません。あまたの作品の中で傑作とは言い難いように感じられるのです。なぜ、書き出し部分だけ軽快な調子で書いたのか? ご本人に訊ねるしかないのですが、当て推量で言わせていただくと、あまりにすばらしい文章を思いつき、捨てがたかったのではないかと愚考しています。
ともあれかくもあれ、自分の母親の一生を、わたしはここで残らず物語るつもりはないのである。さる高名な小説家の「人の家にいって、アルバムを見せられるほどいやなことないでしょう?」という名言をまつまでもなく、己れの肉親について、得々と喋ることの鼻持ちならぬいやらしさを、わたしは承知しているつもりだし、それよりもなによりも、彼女の感嘆符と疑問符にみちた行動を余さず書き立てたら、途方もなく長い、膨大な量の話になってしまうと思うからだ。
井上ひさし「列婦!ます女自叙伝」
比喩を使い、誇張することで、読み手に親近感をもたせる秀逸な導入部分です。井上ひさし氏は文豪と呼称されることはありませんでしたが、優れた戯作者であったと思います。どんな悲しい物語を書いても、どこかにユーモアが感じられる文体なので思わず笑ってしまいます。彼の戯曲もすばらしく、なんどか舞台を観劇しましたが涙と笑いが等分にあって忘れがたいです。
④力強い文体(短文・現在形・断定)
「さあ、ずっとお這入りなさいよ。檀那はさばけた方だから、遠慮なんぞなさらないがいい。」轡虫の鳴くような調子でかう云ふのは、世話してくれた、例の婆さんの声である。
末造はその話の内容を聴くよりは、篭に飼ってある鈴虫の鳴くのをでも聞くやうに、可哀らしい囀の声を聞いて、覚えず微笑む。
森鴎外「雁」
鴎外の簡潔な文体は漢文の素養があって、形づくられています。後の時代のハードボイルド小説によくみられる文末を現在形とすることで、読み手に緊張をしいますが、いまそこで物語が語られているような同時性を感じることができます。
白い女の喉が、画面いっぱいに大写しになっていた。苦痛を訴えるように、激しく首を左右にふりながら、しだいに画面からずれて行き、やがて焼きたての腸詰めのような唇があらわれると、その唇は、規定量をはるかに超えた笑いのために、思いっきりねじ曲げられるのだった。
安部公房「他人の顔」
日常の営みを表現するゆるやかな文体と異なり、異様な事態を表現しようとすると比喩が大げさになり、断定的な文末になります。冷徹な文体は秀逸です。ハードボイルド小説やホラー小説にこの傾向は顕著です。
作者は、物語を語るとき、その物語にもっとも適した文体を選んで小説を書いています。ユーモア小説の文体と心理小説の文体は明らかに異なります。夏目漱石を例にあげると、「吾輩は猫である」と「明暗」とでは語り口がまったく異なり、別人のように感じられます。
作者はどの段階で文体を決定しているのか。
こんな物語を書きたいと思う。次に主人公となる人物が浮かびあがります。これを第二の自己と呼んでもいい。この内奥に潜む第二の自己の意志に沿って語句や表現を選別して文章を綴ります。
なんども読み返してみてください。取捨選択するうちに、自他ともに納得できる文章に仕上がっていきます。このとき、はじめて文体らしきものが生まれます。
小説における文体とは深層心理に眠る、ある固有の人格を帯びた存在を解き放ち表現しつつ、抑制することではないかと、個人的に考えています。
次回は文体に不可欠の比喩=レトリックについて述べたいと思います。自分でもよく理解していないことを書くわけですから、いまから不安に思っております。
お目通しいただいた方に感謝いたします。