物語を乱す
昨日の日記に「物語を乱す筋力」とあった。完全に誤字なんだけど、結構それほしい。
わたしの目の前には、まだまだ未知の世界がひろがっている。わかっていることなんてこのうちの1割にも満たないはず。それなのに、なんだかわかった気になってしまう時がある。どこか先が見えてしまうような。それは悪いことばかりではないと思う。それだけ経験を積んできたってことでもある。だけど、失敗を経験したからこそ、失敗を回避しようと、いろんな行動を制限しようとする自分がいる。目の前の出来事が、失敗した時のそれとどんなに近くても、100パーセント同じであるはずがない。ほんの少し自分のありかたを変えるだけでまったく違う世界がひらける可能性をもちあわせている。時には、その可能性のほうが少ないこともあると思う。それでも、わたしは、失敗しないことよりも、ちがう展開を迎える可能性を信じていきたい。
だから、我が誤字ながら「物語を乱す」っていうのは言い得て妙なのだ。自分が予想し、見通してしまった「物語」をみずからの手で「乱す」こと。それによって、「物語」はまったくちがう展開をとりはじめる、自分の知らない結末が待っている。それは怖いことでもある。自分のコントロール外に自分を、人生を投げだしてみることだから。そう、だからこそ、「筋力」が必要。うん、これも我ながらいいところをついている。どうなってもきっと自分なら大丈夫、そして自分が向きあうと決めた相手ならきっと大丈夫、こうやって自己や他者を信頼するには、余裕と経験、あきらめ、責任感、忍耐力、実はいろんな要素が必要だと思う。一夜にして信頼することはできないわけだから、これらの要素は鍛えつづけなきゃいけない。
「物語を乱す筋力」をつける。わたしは自分の物語を乱して、わくわくし続けたい。