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冬の木蓮(李良枝『ことばの杖』)
李良枝(イ・ヤンジ)という作家
大学院の知り合いに本をもらってなんとなく読み始めたのがきっかけだったのに、いつのまにか彼女の文章、感性が好きになっていた。
彼女の生い立ちや初期の作品を読むと、一度決めたら行動しないと気が済まないような溌剌さ(破天荒?)を持っているように見える。
けれど、それと同時に、やり場のない自らのエネルギーに押しつぶされそうになる危うさを内包していて、ひとつの物事に対して普遍的なものを見出そうとする、ある種の深刻な眼を持ち合わせているのを感じる。
そうした彼女のありようが、文章のいたるところに見え隠れして目が離せなくなってしまったのだった。
李良枝と一本の木
彼女は、1本の木蓮の木に、ある種の真理を見たようだった。
今、花びらはない。花を咲かせていた春の日の木蓮とは、全く違った姿をしている。しかし、自分は確かに花の咲いた木蓮を見てきた。そして次の春にはまた見るだろうことを知り、予感している。今、花びらはなくても、花びらはあったし、またあるのだ。ない花びらは、一体今、どこにあるのか。 花びらはすでに木蓮の中にある。息づいて、咲き誇る日々をじっと待っている。終わりなどなく、終わりは始まりであり、あの春の日の花をつけた木蓮の姿の中に、今の、花のない姿が隠されていたように、この今の、花のない一本の木の中に、美しい春の日の姿がすでに宿されている。
冬の日の木蓮の木には、「花の咲いた」過去があると同時に、花を咲かせた「美しい春の日の姿」という未来、これらすべてが花の咲かない「今」に詰まっているということ。彼女は、それを「終わりは始まり」と表現しているけれど、つまりは、万物が流転していく、無常を1本の木に見いだしたわけだ。
ここで思う。彼女にとって、この木蓮の木はどんな存在だっただろうと。
何度も木蓮の前に立った。毎日のように催涙弾を吸いこまされ、叫び声、怒号に晒されていても、木蓮の木は同じ場所に、同じ美しさを保ちながら立っていた。
1980年。韓国にいた彼女は、光州事件の最中にあった。
木蓮の木との思い出も、韓国での出来事だったようだ。彼女にとって、この木蓮の木は、変わらない存在だった。彼女は、木蓮という不動のものに、動きのある無常を見出していたことになる。ここに、彼女の鋭いまなざしが見えてくる。さっき書いたような、深刻な眼だ。
こう見ていくと、李良枝にとって、「今」は、すべての時間を孕んでいることになる。だからだろうか、彼女は、この木蓮に寄せた詩のなかでこう語っている。
一なる今
過去なる日々と同じように
すべてが創り出されている
この今の中で 励みなさい
この今の只中で
等しく見つめ 等しく手に取り
在ろうとする意志することすら意志せずに
励みつつ 在りなさい
「今」を懸命に「在る」ことが、過去を未来をつくるということ。先のこと、前のことを考える必要はないのかもしれない。考えることもないくらいに、「今」を生きねばならないのだろうな。37歳という若さで亡くなった彼女を思うと、そのメッセージが強く響いてくる。
★紹介した本
・李良枝『ことばの杖 李良枝エッセイ集』(新泉社、2022,5)