一途な和紙への思ひ りん様観音(#秋ピリカ応募)
渓流沿いの細い山道を登ると 煉瓦の煙突から白い煙が立ち登っているのが見えた。 手漉き和紙を生業にする名護和紙の里、 かつては 百軒もあった紙すきの村であったが 今では一軒を残すのみとなっていた。この村上家にはある伝説が残されており 地元新聞社で今季からコラムを担当する 山崎ゆきはこの伝説に興味を持ち取材に訪れていた。地元の逸話を掘り起こし郷土のことを読者に知ってもらいたいと企画した案が採用されたのだ。ゆきは茶の間に通され、秋のしつらえか障子紙には紅葉がすき込まれ晩夏の日射しを柔らかい光へと変えていた。そこから見える庭には りん様と呼ばれている観音菩薩とその脇に遺髪塚があり、それにはこんな逸話が残されていた。
時は天保年間、 初代村上善三郎は妻春とこの地で紙漉きを始めた。この一帯は良質な楮が自生しており 名護屋藩はこれに目をつけ 幕府への献上品として年貢米を紙で納めることを許可していた。一人娘のりんも生まれ忙しい日々を送りながら、その娘もやがて 遠く知れ渡るほどの美しい娘へと成長していた。
紙職人の諭吉とは三つ違いで りんは諭吉を兄のように慕い、楮の枝打ち 雪の降る川での枝の水洗いにも厭わず付いていった。善三郎夫婦は二人の様子を目を細めて見守り やがてりんの婿にと口には出さぬものの 心の中では決めていたことだった。
春になり山間にも山桜が咲き始めた頃
藩の使いの者が 殿が桜遊山の帰りに村上家に立ち寄ると御触れがきた。
城下で評判の娘を一目見るためであった。殿様はりんを気に入り城に上がるよう要請したが 善三郎は 「まだ十五の子供故お許しください」と 土下座して懇願した。しかし納めた紙に 黒いシミがあったと返され 善三郎は嫌がらせを受けていることを悟った。りんは村上家存続のため 自ら進んで城に上がることを父に乞うた。しかしりんが城に出向いて一月も経たない間に りんは流行病で死んだと りんの遺髪を家来が持参した。既に荼毘に臥して亡骸は無いとの事だった。夫婦は嘆き悲しみ それを見かねた諭吉が養子となりこの観音菩薩と遺髪塚を建てたと言う。
ゆきは取材を終えた後 遺髪塚の前に佇んでいた。池に身を投げたと噂する者もいたらしい。ゆきは 名護和紙を広げ りんに問うてみた、『真実を知りたい』すると和紙の上に ぽとりと赤い実が落ちてきた。ゆきは驚いて上を見上げると楮の実が揺れていた。ゆきは『りんさん 諭吉さんに操を守りたかったのでは、それが叶わなかったのではないのか』
そんな思いが駆け巡った。帰り道 和紙の里を写真に収めようとカメラを向けて振り返った瞬間 ゆきはあっと声を上げた そこには一瞬りんが佇んで手を振っている姿が見えたからだ。『りんさん 諭吉さんの子孫がこの里を守ってくださいましたね』とゆきはりんに向かって 手を振って返した。
名護の里は夕陽を浴びて全てが茜色に染まっていた。
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