生活の中で学びにくい時代
昨年の今頃に小学校3年生の担任になった教え子が教室にやってきた。算数の「時こくと時間」の単元を指導した直後のタイミングでその話題になった。
「1時間=60分が教科書に出てきますよね?」
「そうだよな。時計を読むこと自体は2年生だもんね」
「私が教員になった頃(10年前くらい)は、1時間=60分を習う前から子どもたちの多くが既に知っていたはずなんです」
「あ~もう話したいことは分かる気がする…1時間=60分を知らない子が多いんでしょ?」
「そうなんですよ。『習ってない!』って言うんです。確かに今から習うので子どもたちの話すことはおかしくないんですけど。8年9年生活してきて『1時間=60分』は身に付かないんですかねぇ」
「算数の時間じゃなくても小学校の生活のいろんな場面で時間については話をしているはずなのにね。低学年の教室だったら時計の下に時間割に対応した時刻の掲示があったり」
「同僚の先生と話したのもそんな内容でした。1年生の時から折に触れて時刻や時間については話しているんです。多くの子に身に付いていないのがショックでしたし『算数の授業で取り扱われないと習ったことにならない』と話す子どもたちの感覚が…」
「申し訳ないけど、その群の子どもたちは習ったとしても理解は不十分なままになってしまう危険性が高いだろうな。『えっ?習ったっけ?、まだ習ってないよ』となるか、自信を無くして勉強に心を閉ざしてしまうようになるか…」
似たようなケースは時間に限らない。例えば春夏秋冬の順番とか、水曜日の次は木曜日であるとか、夏は遅くまで明るいけど冬は早く暗くなるとか、同居する祖母は「お父さんかお母さんのお母さん」であるとか、駅のすぐ横に住むのに駅名を知らないとかetc
このような子たちに直近3年で出会っている。そして彼らは「まだ習っていない、そんなことは習っていない」と口を揃えて言う。
確かに最近の子どもたち、60分とか30分とかの感覚を身に付ける機会が減ったのだろう。少し前であれば「金曜日の19時からドラえもんとクレヨンしんちゃんが30分ずつで合計1時間。番組が終わるときには20時」のような経験を毎週無意識に行っていた。今はハードディスクに録画したり、見たいタイミングで動画サイトで一気に見たり、リアルタイムのテレビでもスマホやゲームと同時のながら見だったりする。こうなると「金曜日」「19時」「30分×2=1時間」のような感覚は育ちにくい。
このような子たちと接して危機感を覚えるのは「世の中のあらゆる事象は習うを通して知るのだ」という意識になっていることだ。春の次に夏が来るとか、祖母は父親のお母さんであるとか、引き算は数が減るとか、そういった内容は習うことではなく、生活を通して気づくカテゴリーに入っていなければならない。しかしいつでもどこでものネット生活はそんな子どもたちの気づきを阻害するように感じてならない。
一世代前なら「うちは勉強のことなんか何も言わねぇ。でもあいつまあまあ勉強できるんだわ」というタイプの子がいた。しかし現代は極端に減ったように思う。親がある程度放任しておくことが学びに繋がる要素が生活の中で減っているからだ。
「ネットの時代は便利ですよね。いつでもどこでも好きなことが学べます」こう多くの大人が言う。でもこれはあまりにも子どもの目線を外してしまっていないか。ある程度知識の土台ができた高校生以上にしか当てはまらないと感じる。「いつでもどこでも」というのは「いつまでたってもどこまでたっても学ばない」という危険性を内包する。以前だったら月曜の21時に合わせて夕食を食べて風呂に入ってテレビの前で月9のドラマを待った。しかし今は「いつでも見られるからまぁ今日はいいか」と先延ばしする経験は誰にだってあるだろう。子どもの勉強もその「まぁ今日はいいか」になりやすい構造になっている。
これを多くの大人は考えなければならない。