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長編小説:わたしの幸せな結末から_10




元気な明るいお母さん






夏美





「ねえ、お母さん」

夕方洗濯物を取り込んで、ソファーでたたんでいると、冷蔵庫からアイスを出して食べていた娘が声をかけてきた。

「なに?」
「最近なんか元気ないよね。なんかあった?」
「そお?別に何もないわよ」

千夏、よく見ているな。わたしのこと。

「この前さ、なんか女の人来てたじゃん。お父さんの会社の」
「来てたわね」
「あの日から変」

女の子ってまだ小さくても、やっぱり女なんだな。何かあると気づいちゃうんだから。

「お父さんと何かあった?」
「なんで?」
「だって、お母さんってわたしや太一のことなら、落ち込んでもすぐ立ち直るもの。長引くときはお父さん」
「そうなの?」
「そうだよ」

娘はソファーでわたしの隣に座った。

「ね、何があったの?ていうか、何があったのかは言わなくてもいいけどさ、お母さん我慢しないでお父さんともっとけんかしなよ」
「え?」

わたし、我慢しているの?そういうふうに見えるの?

「たぶん、お父さんお母さんが元気ないの気づいてないよ」
「それは……」

見せないようにしているし、言わないようにしているし……。

「そうやって1人で解決しようとしないでさ、お父さんにちゃんと言っちゃえばいいじゃん」
「そうねぇ」

千夏は煮え切らないわたしの顔をしばらく見ていたが、

「じゃあさ、今度わたしが太一見ててあげるから、2人でデートしてきなよ」
「え~」
「嫌なの?」
「嫌っていうか、服とか靴とかお母さんきれいなの持ってないし。今更デートっていってもどこいけばいいのかわかんないよ」
「そういうところだよ。お母さん、我慢しすぎだよ。2人ででかけて、お父さんにたっぷり甘えておいでよ」
「……想像つかないわ」

むしろ、恐ろしくさえあるわ。緊張しそう。

「もう、何年そういうことしてもらってないの?」
「だって今まではいつもあなたたちと一緒だったし……」
「ちゃんと服とか靴とか買ってさ。きれいにお化粧して楽しんできなよ。お母さんきれいなんだからさ」
「……お母さん、きれいなんかじゃないよ。もう若くもないし」

この前家に来たあの女の子みたいに若くなんかぜんぜんない。

「もお、手入れしなさすぎなんだよ。ちゃんと自分のこと大切にしなきゃ。女の人は何歳になっても、自分で自分のこときれいだって思えなきゃ、幸せになれないんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。お父さんに心配かけないように隠れてこっそりしょんぼりしてさ。そんなお母さんかわいそうで見てられないんだよ」
「千夏ちゃん……」

心配かけてたんだな。知らなかった。娘がこんなによくわたしのことを見ていて、わたしの気持ちに気が付いていることに。いつの間にこんなに大人になっていたんだろう。

「ごめんね。ありがとう」

彼女の頭をなでた。





清一





「あ、中條。お前、今夜はいいから、来なくて」
「え?」

夕方、取引先との接待に中澤と行くはずだった。

「その代り、今からピークへ向かえ」
「ピーク?なんで?」
「あの、日本からの来客で何度か使った店、わかるだろう?予約しといてやったからさ。なっちゃんがお前のこと待ってるはずだ」
「なつが?なんで?」
「千夏ちゃんに頼まれたんだよ。サプライズで当日お前が行けるようにしてほしいってさ」
「千夏?千夏まで出てくるの?一体何の話?」
「お前、鈍いなぁ。今日何の日だよ」

何の日?しばらく考える。クリスマスにはまだ早いし。

「結婚記念日だろ」

中澤に先に言われてしまった。

「お前、まじかよ。ああ、千夏ちゃんの言ってた意味わかるわ」

千夏が、なんだって?

「なんて言ってたの?」
「直接本人から聞きな。とにかく今日はちゃんと祝ってあげてだってさ」

よくわからないけど、とりあえず地下鉄に乗って、トラムへ向かう。途中で千夏からラインに長いメッセージが入った。

『お父さん、今頃予定通りにいっていたら、お母さんに会いにピークへ向かっていると思います。できるだけ早く行ってあげてね。今日は太一の面倒はわたしがみるから心配しないでたまには2人きりでゆっくりしてきてください。お父さんはたぶん気づいていないと思うけど、お母さん最近元気がないの。なんでかはわからないけど、お父さんが原因なんじゃないかな?お母さんが長くしょんぼりしているときって、わたしや太一のせいだったことってあまりないと思うんだよね。お父さん、お母さんのこと本当に大切に思ってる?思ってるならちゃんとなんで元気がないのか話を聞いてあげてください。わたしだって話を聞いてあげたいけど、わたしじゃだめなんだよ。お父さんが聞いてあげないと、お母さん元気になれないと思うの。よろしくお願いしますよ。        千夏 』

お母さんのこと本当に大切に思ってる?というくだりが結構厳しかった。千夏が怒っているのが伝わってくる。俺が原因でなつが元気がない、か……。なつはそんなに元気なかったっけ?ここんとこの彼女を思い出す。いつもと変わらなかったと思う。優しくただいまと言ってくれたし、僕が何か言えば笑い声をあげた。でも、そういえば彼女から何かおもしろいことを言ったり、ちょっとした憎まれ口をたたいて僕を困らせたり、は、なかったかも。娘が言う通りに確かに元気がないのかもしれない。

お父さんが原因、で、最近とくれば、やっぱり栗原が家に来てあることないことしゃべったのが原因なんだろうな……。今更ながら、やっぱりあいつ首しめてやりたい。

途中でトラムに乗り換えて、中澤に指定された店へ入る。店に入ってすぐのバーカウンターにこちらに背中を向けている東洋系の女性が腰かけていて、欧米系の男性に口説かれているようだった。あげた髪の首すじから背中へのラインがきれいな人だった。通り過ぎてなつを探そうとして、

「ええっと、その……」

気が付いた。英語が苦手で、いまだに買い物すますくらいがせいいっぱいで、それでもいつも自分が必要な用事は不思議とこなしてしまう。夜が遅くてもできるだけ起きて待っていてくれてお帰りと笑ってくれる。

「なつ?」
「ああ、よかった。せいちゃん、この人さっきから何言ってるのかわからなくて」

いつもと着ている服が全然違くて、何より人前でこんな背中を見せる服を着るなんて、だからわからなかった。後ろ姿からは。

「この人、僕のつれなんですけど」
「なんだ。ずいぶん待たせたんだね。ずっと1人で座っているから、1人なのかと思ってかわいらしいから一杯奢ろうかと思ったんだけど」
「彼女はあまり英語ができなくって」
「そうみたいだね。じゃあ、邪魔したね。よい夜を。君は幸運な男だね」

そういって軽く手をあげて、男性は笑いながら去っていった。

「ああ、よかった。なにがなんだかわからなくって」
「くどかれてたんだよ」

そんなきれいな背中を隠さずに待つからだ。僕が着くまで何かはおっていればよかったのに。

「嘘。こんなおばさんを?」
「おばさんなんかじゃないよ。自分で自分のことそんなふうに言うの、やめな」
「……なんか、怒ってる?」
「いいや」

本当は嘘で、僕はちょっとだけ怒っていた。彼女の首すじから背中にかけてのラインがきれいなのはもちろん知っていて(彼女に言ったことはなかったのだけれど)、自分だけのものだと思ってたのに他の男に見られて、しかも声かけられるなんて……。

「何、飲んでんの?」
「水」
「……なんで?」
「だって、メニュー英語で、カクテルなんてわたしよくわかんないし。それになんか高そうなお店だからさ。失敗して変なのきたらもったいないと思って」

そういって笑った。僕の大好きな顔いっぱいの笑顔。そういえば、千夏に言われるまで気づいてなかった。最近、この笑顔をなつは見せていなかった。

「おなかすいてるでしょ。奥に行こうよ。このカウンターはドリンクしか出さないから」
「せいちゃん、こんなお店、知っているの?」
「仕事で使ったことがあるんだよ」

行こうというと、彼女は腰かけていたスツールをおりた。彼女はシンプルな黒いワンピースを着ていた。前は肩のあたりから胸もとまでまっすぐに走るラインで、背中ほどの露出はない。肩から両袖がふわりと広がって、スカートも控えめなフレアスカートで、前から見ればシックでほどほどに大人っぽくて、それによく彼女の雰囲気にあっているんだけど……。

「ああ、この服、千夏が選んでくれたのよ。変かな?」
「いや、似合ってるよ。すごくきれい」

僕がきれいというと彼女ははにかんだ。なつは結構はずかしがりやなので、露出の高い服を着るのはいやがるんだけど、だから、自分で選んだんじゃないんじゃないかなって思ったんだ。まさか、娘が選ぶとは。この人のことだからきっとフィッティングルームの鏡で、正面だけチェックして、後ろからどう見えるかちゃんとチェックしなかったんだろうな。だけど、千夏はわかってたはずだし、わざとやったんだと思う。

「中澤って名前で予約が入ってると思うんだけど?」

と言うと、ウェイターは奥へ通してくれた。

「わぁ、きれい!」

ウェイターが通してくれたのは、店でいちばんいい席だった。香港の夜景を見ながら食事ができる。中澤がきっとロケーションまで細かく指定して予約してくれたんだろう。

「なに、食べたい?」

なつにメニューを渡すと、眉間にしわよせて考え込む。

「写真もついてないし、全部英語だからわからないよ」
「もうちょっと英語勉強しろよ。不便だろ?」

昔っからこの子は何度言っても単語を覚えない。

「別にこういうお店は英語わかる人と来るからいいんだもん」

しょうがないな。

「肉、魚、蟹、えび、どんなのがいいの?」
「全部ちょっとずつ食べたい」
「……」
「というのは無理だよね」
「うちで料理しにくい蟹とかにする?」

僕はなつの好きそうなものを適当に頼んでハーフでシャンパンを頼んだ。

「きれいだね」

料理が来るまで並んで座って夜景を見た。彼女は無邪気に喜んでいた。そういえばなつは学生が終わってからすぐ結婚して子供が生まれたから、カクテル出すような店に来たことがなかったんだな。そういえば彼女はいつからかかとのある靴をはかなくなったんだろう。スカートを穿くのが少なくなって、髪の毛を後ろでいつも簡単に束ねるだけになったんだろう。

「ねえ、せいちゃん、昔東京タワーに連れて行ってくれたことあったよね」
「うん?ああ、なつが高校生だった時だ。なつかしいね」
「あのときのお店もすごい素敵だったな。まだあるのかなぁ」
「……」

そういって笑った。

思い出した。大学生にはちょっと高い店だった。友達に頼んで教えてもらって、ちょっと背伸びして連れてったんだ。なつを喜ばせたくて。

あの頃の自分には難しかったことが今の自分には簡単にできるのに。皮肉なことに昔の自分のほうが、彼女を大切にしていたのかもしれない。

こんなちょっとしたことでここまで喜んでくれるなら、どうして僕は彼女をもっと早く連れ出してあげなかったんだろう。勝手に2人で一緒に年を取ってるって思ってた。でも、外で働いていろいろなことを経験して変わっていく僕と対照的に、彼女は家という箱の中で、子供と向き合い、ひとつひとつ彼女の飾りを外していった。結婚してから14年、でも、彼女は1回も文句を言わなかった。

「なつ」

手をのばしてひきよせようとすると、彼女は柔らかく抵抗した。

「もう、せいちゃん家の中じゃないんだよ」
「みんな自分たちに夢中で他人のことなんて見てないって」

僕は彼女にキスをした。

「口紅ついちゃったよ」

テーブルから紙ナプキンをとって僕の唇を拭こうとする彼女の手をつかまえて、もう一回キスした。

「もう」

なつはたぶん知らない。僕がキスしたいんじゃなくて、彼女が困る顔がかわいいのでこういうことをしていることを。僕は女の子にキスをするのが好きなんであって、恥ずかしがらずに自分からキスしてくるような女の子は好みじゃないことも。僕の舞台裏はいつも誰にも教えないから。

彼女は料理のひとつひとつに歓声をあげ、おいしいと喜んだけど、思ったほど食べなかった。

「なんか具合でも悪いの?」

僕がそう尋ねると、彼女は、

「いや、なんか嬉しくって胸がいっぱいなんだよ」

と答えた。

食事が終わった後に2人で展望台へ行った。12月でもそんなに寒くないけれど、コートはちゃんとはおらせた。

「ねえ、なつさ。千夏に言われたんだけど、最近元気がないってさ」

なつは両手を手すりにのせた姿勢でこちらを見た。

「俺が原因なのかな?」
「今日はもう楽しかったし、わたしのつまらない話はやめようよ」

そして、こっちに向かって笑いながら言った。

「わたし、明日からまたがんばれるから」

その笑顔を見て、心が痛んだ。どうして僕は娘に言われるまで気がつかなかったんだろう?なつがずっと無理をしていることに。

「なつ、千夏と約束したんだ。ちゃんと君の話を聞くって。だから、話してくれないかな?」

彼女の顔から笑みが消えて、所在なさげにじっと僕を見た。

「俺に話すの、嫌?」
「つまらない話なんだよ」
「うん」
「ほっとけば、また元気なわたしにもどるから」

僕は彼女の肩を抱いた。

「千夏が心配してるんだよ。俺がほんとうに君のこと大切に思ってるのかって怒られたんだよ」
「そんなこと言ってたの?」
「ラインで送ってきたよ」

彼女は悲しそうな顔で僕を見た。きれいにメークして、久しぶりに髪をあげて、きれいにマニキュアを塗って、それでも、彼女が悲しそうな顔をしているのをみて、僕も悲しくなった。その瞬間に、今夜の楽しかった時間が全部消えてしまった。娘が一生懸命選んだ服も、エナメルのヒールも、彼女が笑わなければ、輝かなかった。どうして僕は自分の大切な人に、こんな悲しい顔をさせているのだろう。ぼんやりそう思う。僕の何がいけなかったんだろう?

彼女は僕から目をそらして、夜景に向かって話し始めた。

「この前ね、あなたの会社の女の子、栗原さんだっけ?が来て、あなたと一晩過ごしたなんて言ってさ、すごくびっくりしたけど、嘘だってすぐわかったの。あなたは家族を傷つけるような人じゃないし、もし何かあったなら、嘘をつかないで教えてくれる人だってわかってたから。ただね。あなたが彼女に手を出さなかったのは、あなたがまじめで、家族思いだからなんであって、彼女と比べてわたしが魅力的だからではないのよね」

風のない夜だった。人もそんなに多くない。僕は静かに彼女の話を聞いていた。

「わたしはもともとすごいきれいってわけでもないし、結婚してもう年も取ったし……」

僕だって一緒に年を取ってるんだけどな。

「年を取るのは止められないし、でも、世の中にはどんどん若くてきれいな子が出てくるわけじゃない?そういう時にあなたを引きとめられるのは、かわいい子供がいて、わたしがその子供たちのお母さんだからなの。そういうのって勝ったってほんとうに言えるのかな?」
「なつ……」
「結婚って不自然な制度だよね。年を取って以前のようにきれいじゃなくなっても、わたしだけを見てって縛りつけるの。子供がいるからとか長く一緒にいるから情があるからとか、そういうの全部使って奥さんって椅子に座って威張っているのよね。でも、それって純粋にせいちゃんがわたしを見ているってことにはならないじゃない。彼女みたいに若くてきれいな子を見て、ああ、わたしはいつのまにこんなにみすぼらしくなっちゃったんだろうって思っちゃったのよ。今のわたしって、あなたにふさわしくないわ。彼女と歩いているほうが様になるよ、せいちゃん」

なつは昔から極端に自己評価が低くて、特に僕とのことになるとどんなに好きと伝えても信じてもらえなくて、僕がなにか他の女の子とちょっとしたトラブルを起こすたびに、彼女はわたしなんかどうせと言って、ひどく落ち込んだ。そして、結婚したときからぴたりと言わなくなった。

「あなたは仕事を始めていろいろ覚えてどんどんすてきになっていく。いろんな人とも出会うし、でも、わたしは家の中にいて何も変わらない。変わらないどころか、年を取ってだんだんみすぼらしくなっていくのよ。素敵な女の子に誘われてあなたが手を出さなかったのは、かわいい子供たちのお母さんであるわたしを傷つけたくなかったからなのよ。女の人として見ているわけじゃない」

でも、それは言わなくなっただけであって、思わなくなったわけじゃない。僕はそれを知っているべきだったんだ。

「これでいい?こんなことほんとうはあなたに言いたくないの。誰にも。わたしだけが知っていればいいのよ。こんなつまらない自分」

彼女の目から涙が零れ落ちた。抱きしめると僕の腕の中で身体を震わせて泣いた。

「もう、帰ろうよ。明日からまた元気で明るいお母さんに戻るって約束するからさ」

どうして僕は大切な人をこんなに傷つけて泣かせているのだろう。僕だって君がずっと好きなのに。僕は君以外の女の人の笑顔になんか興味はないのに。毎日君がいる家に帰って、隣で寝て、一緒にコーヒーを飲んで、ごはんを食べているのに。どうして君はこんなにも遠いんだろうか。

「ごめんなさい。ごめん。なつ」

僕のために、子供たちのために、彼女は毎日、同じ生活をつまらないとも言わずに繰り返してくれていた。水がおだやかにたまりあふれるように、彼女はいつも愛情を注いでくれたし、それは僕や娘や息子を支えている。ずっと深いところから。それは決してありふれたつまらないものなんかじゃないんだ。彼女だって、栗原が乱暴に僕たちの家にあがりこんで、つまらない話をするまでは、自分に誇りをもって疑問も持っていなかったはずだ。すごく残酷な形で自分には価値がないと思い込ませてしまった。僕はそれを止められなかった。

「実家に戻ってもいいよ。こんなひどい旦那おいてさ」
「……」
「でも、すぐ迎えにいくけど」
「飛行機代がもったいないよ。ここ、日本じゃないのよ」
「俺の横に他の女のほうが似合うなんて、そんな悲しいこと言うなよ」

大体あの女は俺の好みじゃないんだけど。

「なつが知らないだけで、ああいう栗原みたいなタイプは男にもてないよ」
「そうなの?」
「なつみたいなほうがもてるよ」
「嘘だ!」

即答かよ。なんでこの人は自分のことになると頑固になるのか。

「今までもてたことなんてないもの」
「モテ期が来る前に俺と結婚しちゃったからな」

男の人にちやほやされたことがないからな。この人は。

「自分がもててるところなんか、想像できないわよ」
「太一にもててるじゃないか」
「……」
「……ごめん、冗談だよ」

彼女はため息をついた。

「あーあ、もっとフツーに髪の薄い人とか、お腹の出ている人と結婚すれば楽だったのかなぁ。急に若い女の子が家に来て、度肝を抜かれる経験なんかしないで済んだのに」

僕は瞬時に想像してしまった。薄毛の男と手をつないで笑っているなつや、お腹の出ている男に抱きつかれている彼女を。おぞましい光景だった。

「だめだよ。俺よりかっこ悪いやつと結婚するなんて、君にふさわしくないよ」
「じゃ、あなたよりかっこいい人だったらいいの?」
「そういう人にはもう特定の女の人がいるって」

彼女は笑った。睫毛がまだ濡れているままで。

「ばかね。本当にあなたは」

彼女が笑うと、僕も嬉しかった。体の芯が温かくなるような気がした。

「そういえば昔、彼氏になる気もないのに家に泊まってっちゃう男の子がいて苦労したわ」
「……ずいぶん昔の話だね」
「自分には彼女いるのに、わたしには1人でいろと言うし」
「……」
「あの頃からあなたわたしのこと独り占めしてるのよね」
「うん」
「そういえば、あなたわたしのこと大好きだったのよね」
「……うん」
「今でもあの時と同じくらい、わたしのこと好き?」

なつが僕の顔をみあげた。瞳がきれいに輝いていた。僕はそれを見てとたんに泣きたくなった。でも、泣かなかった。男はめったに泣くものではない。

「もちろん」

今でもあのときと同じくらい大好きです。

「ときどきちゃんと言ってくれないと、時間もずいぶん経ってるし、忘れちゃったわよ」
「ごめんなさい」
「実家に帰ろうかな」
「飛行機代かかるからやめて」
「さっきと話が違うじゃない」

もう1回彼女が笑った。

「帰ろうよ。実家じゃないほうの家に」

***

タクシーの中で彼女は寝てしまった。もうすぐ家につくというところで、千夏に電話かけた。

「助けて。下まで迎えに来て」

タクシーがマンションのエントランスに泊まるところに、千夏は部屋着で立っていた。

「なに、お母さん寝ちゃったの?酔っぱらっちゃった?」
「そんなに飲ませてないんだけどね。千夏、お母さんはいいから荷物だけ全部持ってくれない?」

僕は彼女を背負った。

「この靴ももう脱がしちゃってよ。持てる?」
「大丈夫だよ。お父さんこそ大丈夫?」
「一応男だし、大丈夫だよ。これくらいは」

エレベーターで上がるとき、娘は母親の寝顔をじっと見ていた。

「お母さんね、たぶん寝不足だったんだよ。最近」
「そうなの?」
「だるそうだったし、時々学校から帰ってきたときに寝ちゃってることがあったもん」

今日も本当は楽しそうだったけど、体調が悪かったのかもしれない。

「お父さん」
「なあに?」
「お母さん、もう元気になるよね」
「うん。大丈夫だよ」

家に入って寝室まで運んでからベッドに寝かせた。

「お母さんのパジャマ出してよ。着替えさせなきゃ」

ワンピースのジッパーは背中についていた。ジッパーを下げて服を脱がせていると、千夏に言われた。

「お父さん、服を脱がせるの慣れてるんだね」
「……」

こういう場合何と返事をしたらいいのだろう。父親として。

「あのお化粧を落とすやつないの?」
「ああ、拭くだけコットン」
「持ってきてよ」

これ以上見られるのもいやなので、娘を追い払う。着替えをすまさせて、掛け布団をかけてあげる。やっぱりちょっと顔色が悪い気がする。

「持ってきたよ」
「お父さんよくわかんないから、千夏お化粧落としてあげてよ」

千夏の手つきを見ながら、自分のネクタイを外した。ちょっと疲れていたけど、眠くはなかった。

「お前、なんか手馴れてるな。化粧なんかしないのに」

千夏はこっちを見た。

「ときどきしてるよ。お父さんが知らないだけで」
「え?」
「もちろん学校にはしていかないけど、お休みの日とかたまに」
「化粧して出かけるの?誰と?」
「彼氏」
「……」

今、なんて言った?

「もう、終わったよ。じゃ、わたし明日も学校だから寝るね。おやすみ」
「おやすみ」

娘はさっさと部屋を出て行ってしまった。


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