
長編小説:わたしの幸せな結末から_08
わけありの新人
清一
「そういえば、千夏ちゃんは元気か?」
同僚の中澤が聞いてくる。
「お前に関係ないだろ」
「何歳になったんだっけ?」
「13歳」
「早く大きくならないかな」
取引先へ向かう車の中、軽口をたたいてくる。僕はパソコンで資料の最終チェックをしていて、ちょっと邪魔。
「なぁ、千夏ちゃんはどういう男性が好みなんだ?」
「お前、それ本気で言ってたら犯罪だぞ」
「ごめん。半分本気かも」
「千夏にバツイチで二回り上は、隕石が地球にぶつかって明日地球が消滅するとしてもありえないから」
中澤がため息をつく。
「あ~あ、どっかにいい女落ちてないかな?」
「お前、離婚したばっかじゃん。女はもう懲りたんじゃなかったのか?」
昼間っから女の話じゃなく、こっちは資料のチェックがしたいんだけど。
「こりたのは結婚だよ。女はこりてない。まだ若いのに」
中澤のことばにふと思う。30代後半はまだ若いのか?
「そういえば、大阪から3か月、研修で新人来るって話、聞いたか?」
「なんか言ってたね」
「なんと、女子らしいぞ!」
中澤の顔は満面の笑みと興奮に満ちていた。大型の契約まとめたとき以上に興奮してやがる、こいつ。それにしても、うちの会社で少数の女子総合職。まちがいなくそこらの男子より優秀だろう。
「すげえ人が来ちゃうんじゃないの?もちろん英語なんかぺらぺらで」
「帰国子女らしい」
「ああ、じゃ、間違いなくお前が期待するような女子ではないな」
鉄の鎧と理論で武装した、噛みついたらこっちの歯がぼろぼろになりそうな、
「それが、極秘情報なんだが」
色気とは無縁な方でしょう。
「超美人でエロイらしいぞ」
資料チェックして数字見ている横で『エロイ』とか言われると脳が正常に動作することができない。
「お前さ。俺の邪魔すんのやめてくれない?ていうかお前もちょっとは仕事しろよ」
「移動中までそんなせこせこやってられっか」
あーあ、どこかにいい女落ちてないかな?もう一度言う。中澤はだけれど、ほんとは普通にいいやつだ。奥さんに浮気されて離婚するときに、それでも彼女にそれ相応の金を渡したというほどに。女、女、といっているけれどそれは口先だけで、ほんとうは女は懲りているはずだ。香港事務所のみんな、特に日本人駐在員のメンバーは、ことばには出さないけれど彼のことを今かなり気にかけている。
***
超美人でエロイ新人は、エロイかどうかは別にして確かに美人だった。それにしても不自然な人事だった。人員に余裕がある海外大規模の拠点で研修というならともかく、どうしてそんなに大きくもない香港に新人を3か月という中途半端な時間でとばしてくるんだろう?あまり見たことがない。
「で、3か月の教育係は、中條君」
そして、
「よろしくお願いしますね」
どうして、俺が教育係なんだ?
「中條~」
なんか恨みがましい目で睨んでいる人がいるんですが。新人女子の栗原なにがしは、僕をじっと見た。
「よろしくお願いします」
たおやか、一言でいうとそんな感じ。小顔スタイルよし、しかもおそらく頭もいい。こういう女子の教育係なんて、はっきり言って嫌だった。やりたがっているやつに売りたい。俺はただ静かに暮らしたいんだ。
***
「ええと、とりあえず今俺が担当している取引先、簡単にまとめておいたので目を通しておいてください。それと、日本では何か担当していた事案ありますか?」
「基礎研修が終わってから、……」
彼女の話を聞いてから、やっぱり不自然だと思う。中途半端な時期に日本を出ている。うちの会社ではありえない。金をかけて厳選して採用した人材だ。こんなめちゃくちゃな研修コースたどらせるなんて、金の卵だぞ。
「で、香港で特に関わりたい内容とかは?」
「……お任せします」
小顔、黒髪ストレート。最近の日本人は、日本人離れしている。そして、帰国子女、英語ぺらぺら。俺には荷が重い。
***
「なんで俺が教育係なんですか?しかも、何も聞いてないのに発表って。所長」
「先に相談したら断られると思って」
「普通は、人事から事前に研修させるべき内容とか来るんじゃないですか?それに、俺の時は新人の教育はその場の所属になるまでは、全部俺なんかよりもっとベテランの人がみてましたよ」
「そうだよね」
「じゃ、どうして今回は」
「急に決まった話でね。いろいろわけありなの」
「わけありって……」
「今はまだ言えないけど、そのうち話すよ」
一見フツーそうに見えて、この所長譲らないところでは、押しても押してもダメな時がある。
「そうそう。彼女の研修はテキトーにやってもらって構わないから。彼女もそれで文句は言わないと思うよ」
何か嫌な予感しかしない。
「さぁ、戻った戻った。君だって時間を持て余しているわけではないでしょう?」
テキトーに追い払われてしまった。
***
その日の夕方に事件が起こった。
取引先回って帰る途中、エレベーター乗って下へ降りる。
「俺は社に戻るけど、栗原さんはこのまま直帰しちゃってかまわないですよ」
僕は彼女に背中を向けて立っていた。
「中條さん」
彼女の手が左肩に置かれたので、振り向くとネクタイをぐいっと引っ張られてすぐにもう片方の手が僕の首筋にからみつき彼女のほうへ引き寄せると、キスされた。しかも濃厚なやつ。
「ちょっ 何やってんの?」
彼女の体を両手で突き放す。ふいをつかれてかばんやら資料やら床に落としていた。やべ、パソコン。慌てて拾って中を見る。チーン、エレベーターが1階についた。エレベーター待ちの人たちがじろじろ僕の顔を見る。
「口紅ついちゃってますよ」
栗原は耳元でそうささやくと、さっさと自分だけエレベーターをおりていく。僕は慌てて手の甲で口をぬぐい、エレベーターをおりて彼女を追いかけた。
「あの、俺、結婚してるんだけど」
「知ってますよ。子供が二人」
「知ってたら、どうして?」
「わたしそういうの気にしないんで。むしろ人の物だからこそほしくなっちゃうのかな」
なんだ、こいつ。いつのまにか栗原はまとめていた髪をほどいている。事務所で見せるのとは違う微笑をみせていて、先ほど重ねた唇が赤く濡れている。
「社に戻るなんてやめて、このまま飲みにでもいきません?」
「……いや、戻ります」
「ふうん。そんなに簡単じゃないんだ」
風が吹いて、彼女の長いまっすぐな髪がさらさら揺れている。街にひとつひとつ灯りがともり始める。
「ま、そのほうがおもしろいですけど。それじゃ、お疲れさまでした」
彼女はあっさりそういうと、僕に背を向けた。彼女のスカートから伸びた細くて形のいい脚がヒールをならしながら遠ざかっていくのを眺めた。あの娘って俺のいくつ年下だったっけ?ふとぼんやりそんなことを考える。
***
「所長。昼間言っていたいろいろわけありのわけについて教えてください」
社に戻るとまっすぐ所長のデスクに行って、会議室に引っ張り込んだ。
「そのうち話すっていったじゃない」
「今日話してくれるまで帰しませんよ」
僕の必死の形相を所長はつくづくと眺める。
「もしかして何かあった?」
「せまられたんですよ。2人だけのときに」
所長はおおと目を輝かせた。
「何、喜んでるんすか」
「いやいや参ったね。人事から聞かされたときは半信半疑だったんだけど。やっぱり本当なんだ」
「何がですか?」
こほんと所長はせきばらいをした。
「まあ、座りなさいよ。中條君」
僕は大人しく椅子をひいて座った。
「彼女ね。今まで二回、社内の、その、妻帯者に手を出していてね。騒動起こしちゃってるの。日本で」
「え?」
「1回目は手出した男性社員のほうが悪いって論調だったんだけど、2回続くとね。どうやら彼女のほうがあの手この手で誘っているみたいだってことになって…。しかもね、2回目は奥さんにばれちゃって……。彼女今、民事で訴えられてるわけ」
何ともぞっとする話だ。
「日本の会社の中でもすごい噂になっちゃってさ。本人も今、居場所がないんだよね。だから人事で今後の処遇が決まるまで、取りあえず’海外に預けようって話が出てさ……」
「そんなの人事預かりにして出社させなければいいじゃないですか」
「本人がOKしなかったんだってさ。法的な理由でもない限りは自分は会社に来るって」
一体どんなやつなんだ。そんなことやらかしてきっと針の筵だろうに、筵の中に入りたいなんて。
「それにしてもそんだけ大問題起こしてとばされてきたのに、全然反省してないみたいだね。彼女」
「とにかく今からでもいいから担当換えてください」
「それはだめ」
所長はちゃっかりそう言った。
「何でですか」
「君しかいないじゃん、適任。みんな妻帯者だし、迫られたらころっといっちゃうよね、あんな美人で若い子。でも預かっている以上更に問題起こしたら、いくら本人に問題あるといっても僕もやばいわけ」
こほん、所長はもう一度咳払いした。
「君が一番堅そうだったから……」
そんな理由だったんかい。
「中澤がいるじゃないですか。あいつ今、シングルでしょ?万が一何かあっても、あいつなら問題にならないじゃないですか」
所長はふいにじとっとした目をした。
「彼、今、ぼろぼろでしょ?これ以上何かあったらと思うと心配でね」
優しいじゃねえか。でも、だからってどうして俺が貧乏くじなんだ?
「俺だって困りますよ。仕事は大事だけど、家族より大事じゃない」
「でも、大事な家族を養うためには仕事が必要でしょ?」
「おどしてるんですか?」
「まさか」
「所長にそこまでの人事決定権ないでしょ?」
メガネの向こうがきらりと光った。
「ないね」
僕はため息をついた。
「君んとこは大丈夫でしょ。夫婦仲いいし」
所長が何を見て仲がいいと思ってるのかわからない。
「ねえ、中條君。君もさ、あと何年かしたら40代になるわけだ。そうしたら、自分の仕事だけじゃなくて、自分の後輩や下の面倒や指導を今よりもっとしなくちゃいけなくなるよね」
「はい」
「彼女を指導してやってくれよ」
「これは指導の域を出ていると思いますけど」
「会社の仕事というのをこえてさ、人生の先輩としてさ。どうして彼女がこんなめちゃくちゃなことをしているのかはわからないけど、このままじゃいけないっていうのは本人もどこかでわかってんじゃないのかな。だけど、止められないんだよね、自分で自分を。だからさ、周りの誰かが教えてあげなくちゃいけないんじゃないかと思うんだ」
所長は自分で自分の意見にうんうんと納得して、頷いている。
「そこまで言うなら所長がやればいいじゃないですか。教育係」
「えっ?」
所長はなぜか一瞬嬉しそうな顔をした。
「僕なんてだめだよ。はっきり言って自信ないよ。もし何かあったらと思うと」
自分にもなにかあると思ってるんだ。この人。こほん、3度目の咳払いをする。
「とにかくうちの事務所の中では君が適任なの。いちばん堅い男なんだから、よろしく頼むよ」
所長はぽんぽんと僕の肩をたたいた。
***
「あ、栗原さんは助手席乗ってください」
僕の横に乗ろうとした彼女を制して、前に座らせる。彼女は大人しく後部座席の扉をぱたんと閉めて、前の席に滑り込む。
「なんか警戒されちゃってます?わたし」
「今日から僕の半径50㎝いないに入らないでください」
「心配しないでももうあんなことしませんよ」
彼女がシートベルトをしめて、事務所の香港スタッフが車をスタートさせる。
スマホで為替と株の動き、経済ニュースに一通り目を通していく。
「わたし、口でするのも結構うまいんですよ」
なんてことを朝から口にするんだ、この娘は。運転している香港人スタッフが日本語が全然できないやつでよかった。
「今、どんなかなって想像したでしょ?中條さん」
「朝からそういう話するのやめてくれない?」
「だって、夜つきあってくれないじゃないですか」
「朝も昼も夜も俺に対してそういう話するのはやめてくれ」
「ルール、多いですね」
しばらく黙る。でも、ふいにまた彼女は口をひらく。
「来る日も来る日も同じ女の人抱くのって飽きません?毎日延々とカレー食べ続けるようなものでしょ?」
「……」
「みんな結構奥さんの見ていないところでうまくやってますよ。中條さんだってかっこつけてるだけでたまにはしてるんじゃないですか?浮気」
「ないよ」
「嘘?」
「1度もない。神に誓える」
へーえ。と栗原が言う。
「そんなの聞くと俄然やる気出ちゃうな」
僕は彼女のその言葉を無視する。
「たった3か月って割り切って、わたしと遊びません?ばれなきゃいいじゃないですか」
「できないよ」
「どうして?」
「子供たちに合わせる顔がなくなる。そんなことまでして遊びたいなんて思わないよ」
「たった1回でも?」
「1回でもだめなもんはだめ」
「堅いですね。つまらない」
「そうだ。俺は堅くてつまらない男だ」
そして静かな毎日を愛する。頼むから俺のことはほっておいてくれ。
***
その会話があってから、しばらく栗原はちょっかいをかけてこなくなった。それで、きっともう諦めたんだと思って安心してた。
「今夜、お前も一緒に出てよ」
中澤に声をかける。取引先の接待があった。
「なんで?栗原さん連れてきゃいいじゃん。向こうだって絶対そのほうが喜ぶじゃん」
「所長にも相談したけど、彼女は出さないから」
「え~、そうなの?」
「だから、お前出ろよ。ちゃんと言ったからな」
でも、その夜、僕がトイレに中座して個室に戻ると、部屋の外にも聞こえるくらい場が盛り上がっていて、何か嫌な予感がしてドアを開けると、
「中條君。こんなビックサプライズ用意してるなんて……」
すっかりご機嫌になった取引先の対面に座っているのは、黒いつやのある髪、形のいい小顔、すっと伸びた背筋。一言でいえばたおやかな栗原まどか。おい、誰だ。場所教えたのは?そんなの一人しかいない。
「おい、中澤」
部屋の隅で小突く。
「お前……」
「いや、まどかちゃんに教えてって頼まれてさ」
「何がまどかちゃんだよ」
「おい、中條君。なにやってんの?こっちきてみんなで乾杯しなおそうじゃないか」
振り向くと、すっかりご機嫌の良くなったおじさんたちの狭間で、栗原が捕食者の目で僕を見ていた。
***
「どうもありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
「今日はちょっと飲ませすぎちゃったかな。ごめんね。後で謝っておいてね」
「いえ。あいつが弱いだけなんで、気になさらないでください」
取引先をタクシーに乗せて見送る。中澤は店でつっぷして寝ている。あんまり腹がたったので、自分に回ってくる酒を全部飲ませてつぶしてやった。栗原はしれっとしている。結構飲んでたはずなのに、つよいらしい。
「やっと2人っきりですね」
「いや、3人だ」
店に戻ろうとすると栗原に腕をつかまれた。
「半径50㎝、忘れたの?」
栗原は腕を離さない。僕は右手で彼女の手を取って外させた。
「なんか全然酔ってませんね」
誰がお前みたいな女のいる横でがばがば飲むか。
僕はタクシーを1台つかまえた。
「先、帰っていいよ。俺は中澤送ってくから」
「酔っぱらってる女の子、1人で帰すんですか?」
「君、酔ってないじゃん」
タクシーの運転手はのるのかのらないのかと広東語で聞いてくる。しょうがないので、乗らないと答えてタクシーを行かせた。
「わたし1人で帰したらどこへ行くかわかりませんよ。わたし、お酒入るとがまんできない性質なんで」
そんなの知るか。
「さっきお知り合いになったばかりのおじさまたちの中から選んで電話かけちゃおうかな?」
「あのさ、大事な取引先にそういうことするなよ」
「じゃ、ちゃんと家まで送ってくださいよ」
しょうがないな。全く。僕は店に戻って中澤を担いで歩かせる。
「君は前乗って」
3人でタクシーに乗る。栗原が行先を告げている。
「いや、そうじゃないから」
僕はまず栗原の家、次に中澤の家に向かわせる。
「中澤さんの家のほうが近いじゃないですか」
「レディーファーストだよ」
「つまらない」
「言っただろ。つまらない男でけっこうです」
彼女のマンションが近づいてくる。僕はほっとした。これで何事もなく今夜をのりきれる。
「わたし、フツーじゃないんで」
たしかにそうだけど、何を言い出すんだ栗原。
「もし、中條さんがわたしのこと1人でおろしたら、ほんとにおじさまに電話かけちゃいますよ」
ため息がでた。
「そんなにかけたいならかけろよ」
「いいんですか、そんなこと言っちゃって」
「第一に俺はしつこい女は嫌いだし、第二に俺は仕事より家族が大事なの」
僕にしてはきつめの言い方になった。プライドの高い彼女をカチンとさせる程度にきつかったと思う。とうとう彼女がムッとしたままタクシーをおり、ちょっときつめにバタンとドアを閉めたとき、安堵の思いとともにちょっと言い過ぎたかなと思ったくらいだ。まだ知らなかった。このとき、怒らせてはいけない相手を怒らせてしまったことに。
***
「おい、中澤しっかりしろよ」
家までかついでいって、ベッドに寝かせたとき、もう0時を越えていた。タクシーは待たせずに帰らせてしまったし、明日は休み。もう朝までここにいようと思う。なつの携帯を呼び出す。
「なーに?」
「ごめん。寝てた?」
なつは、向こうであくびした。
「寝てたよー。今、何時?」
いつものなつの声だった。メッセージ送っとけばいいって分かってたけど、今晩は声を聴きたかった。なんとなく。
「ごめん。中澤がつぶれちゃってさ。今、あいつん家いるんだけど、もう遅いし、このまま泊まって、朝帰るよ」
「ああ、中澤さん?いいよ。わかった。それだけ?」
「うん」
「じゃあね。おやすみ」
「うん。おやすみ」
いらいらしたり緊張していたのがなつの声を聴いて、ほぐれていく。冷蔵庫を勝手にあけてペットボトルの水を飲むと、男の隣に寝るのは嫌だったのであちこちあけて予備のふとんをみつけてソファーに横になった。