
長編小説_わたしの幸せな結末から_03
最後の最後まで心を開く
清一
その部屋は白くて光がたくさん入ってきて、明るかった、とても。初めて会う精神科医は髪の薄い中年のおじさんで、僕に飲み物を勧めた。
「さて」
先生は手元のフォルダーに挟まった書類に目を通した。受診希望した際に僕が提出した問診書だと思う。
「このいただいた問診書である程度の事情は理解しているつもりなんですが、最近ご結婚されたんですね」
「先月です」
「それで、お子さんが生まれる予定と……」
「あと3か月ほどなんです」
「それで?」
「自分がちゃんと父親になれるのかが心配で……」
「その心配の原因は幼少期のご自身の体験だと感じていらっしゃるんですね」
「母との関係が、その、あまりよくはなかったので」
「よくないというと、具体的には?」
ここでちょっとためらった。今まであまり人に話したことのないことだからだ。
「子供の頃から母とはずっと疎遠で、かわいがってもらった記憶がないんです」
「抱きしめられたりしたこともない?」
言うのに抵抗があった。初めてあった人に。でも、この人は医者だから。
「はい、ありません」
「小さいとき、中條さんのお世話をしていたのはお母さまだけですか?」
「いえ、祖母が隣に住んでいたので」
先生は問診票の隅に何か書き足した。
「おばあさまがそばにいらっしゃったのは、何歳から何歳までですか?」
「生まれてから10歳までです」
「それからは離れて暮らすようになったんですね」
「いえ、急病で亡くなったんです」
先生は書類に顔を向けたまま、上目づかいにちらりと僕を見た。
「大体わかりました。それで、父親になれるのか心配だと思うようになったきっかけは何だったんでしょう?」
どっからどう話せばいいんだろう。とりとめのない話になってしまいそうだ。
「結婚した彼女の家は僕の家の隣で、昔からよく知っていて、彼女の家庭が僕の憧れだったんです。無意識に彼女と結婚したらそういう家庭が手に入るだろうと思っていたんですよね。でも彼女に新しい家は僕と彼女で作るものだから、彼女の家の真似をしなくていいと言われて」
「わからなくなった?」
「はい。自分には温かい家庭で育ったことがないのに、何を見本にして家庭を作るんだろう?そう思ったとたんにどんどん怖くなって。子供も生まれるし、しっかりしなきゃって思うんですけど」
僕と一緒にならなかったら、彼女にはもっと別の人生があったかもしれないのに、どうしてつい手を伸ばしてしまったんだろう。そんなことまで考えてしまっていた。ここのところ。
「それに、彼女にこうも言われました。彼女を喜ばすためにしたいろいろなことを、無理しないでいいと。だけど、何もしていないと不安なんです。彼女のために何かをして、喜ばれたり、感謝されたりしていないと、安心できないんです。しないでいいって言われると、じゃ代わりにどうすれば安心できるのかがわからなくて」
「何がそんなに不安なんですか?」
「……」
すぐに答えられなかった。
「彼女が喜んだりしているときは、愛されてるって思えるんです。それがないと、気持ちがわからない」
「愛されていると感じられませんか?」
「感じられません。僕を愛している人がいるということ自体が僕には不思議に思えるんですよ」
「自分には愛される価値がないと思えるんですか?」
僕は先生の目を見た。プロだからなのかもしれないけれど、その目には感情がなかった。ガラス玉みたいに。かわいそうとかいう同情がなくて、ただ、僕を一つの現象として眺めているようだった。トルネードを研究している学者が、トルネードを観察するように。
「はい」
「それは自分が幼い頃に愛されたことのない人間だからですか?」
「……はい」
「本当にそうでしょうか?」
「え?」
「職業柄さまざまな人に会いますが、誰にも愛されないで大きくなった方というのはね、中條さん。もっといらいらしていますよ。或いはひどくおびえていて受け答え自体が困難で、診察を何度も繰り返してやっと入口にたどりつく。でも、中條さんは少し緊張されてはいますが、初対面のわたしと冷静に対話することができる。また、さきほど『奥様を喜ばせたい』とおっしゃられましたが、これは相手に愛情を示しているわけですよね。誰かに同じことをされたことがあるから、あなたもそれを繰り返し奥様にされているのではないですか?」
考えたことはなかった。一度も、そんなふうには。
「誰があなたに人を喜ばすということを教えてくれたんでしょうか?」
ずっと忘れていた。失った衝撃で思い返すのが怖くて忘れていた。
「祖母です。亡くなった」
「どんな方だったんですか?」
久しぶりに祖母の笑顔を思い浮かべた。
「とても穏やかな優しい人でした。怒って声を荒げるようなことは一度もなかった。人の世話をするのが好きで、あの頃母と僕の世話を文句一つ言わずせっせとして、僕が喜ぶと自分のことのように喜んでくれました。母は……、今はもう元気ですが、僕が小さい頃には精神的なほうでですが、普通の状態ではありませんでした。でも祖母は育児のできない母を批判的な目で見たり声に出してなじったりすることは僕の知る限りありませんでした。ただそっと世話をして見守って、忍耐強く母が元気になるのを待っていたように思います」
「すばらしい方ですね」
僕が学校から家へ帰ると、台所の床に転がって冷たくなって死んでいた。
「母と僕のことをずっと気にかけていたから、突然命を落とすことになって本人もつらかったと思います」
涙がとめどなく流れた。
「お父様はどんな方ですか?」
「仕事で忙しいですが、やはり祖母と似ていて、人の世話をするのが好きで、昔はよく会社の人が家にごはんを食べに来たりしていました」
「ご両親はよくけんかをされていましたか?お父様はお母さまが育児をされないことに対して怒ったりされていましたか?」
「……けんかは、いつも僕の見えないところでしていたので……。でも、母が感情的になって何か大きな声で話しをして、それを父が我慢して聞いているのが多かったように思います。父が母をどなったりしているのは見たことがありません」
「お母さまが精神的に弱ってしまった原因をご存知ですか?」
「父によると……」
父と話したあの日の夜を思い出す。
「僕も最近まで知らなかったんですが、母は父と結婚する前に結婚していた相手がいて、その人を事故で失ってしまったそうなんです。それがきっかけで自殺未遂をしたりして……」
「そのお母さまをお父様がずっと支えてこられたんですね」
きっとすごくつらかっただろう。今になってそう思う。
「僕が大学生の時に離婚してしまいましたが、それまではずっと」
自分のほうを向いてくれない人をそんなに長い間愛し続けた。
「深い愛情がなければできないことですよね」
「はい、そう思います」
「素敵なご家族じゃないですか。そう思いませんか?」
「……はい」
僕は、今日までわかっていなかった。自分が母に愛されなかったという点にばかりこだわりすぎていて、いろいろな物が見えてなかったんだと思う。
「中條さんは本当に自分は人の愛し方を知らない人間だと思いますか?」
答えられなかった。
「自信がないだけであなたはもう自分の家族から愛し方を教わっていて、それができているんじゃないでしょうか?奥様もそんなあなただから、あなたを選ばれて結婚されたんではないですか?」
僕にとって結婚というのは、なつの家に入ることだった。自分の家を捨てて。僕は自分の家はなんら家庭として価値がないと思っていたから。そんな僕の冷たさを心底恥じた。
僕が幸せに生きていけるようにと愛し育ててくれた祖母のことを忘れていた。どこかで裏切られた気持ちになって、傷ついている父を本気でいたわろうと思ったこともなかった。ただ、自分が思う完全ではないからといって自分の家族を切り捨てようとしていた。そんな僕に新しい家族が作れるわけないじゃないか。
「ただ、中條さん。それでも課題があります。あなたは今日あなたがわたしに話したような話を奥様に話すことができますか?」
僕はしばし黙った。彼女に話したくなくて、でも、自分で解決できないから、ここに来てるんです。
「話さなければだめでしょうか?」
「もし、二人で支えあい生きていきたいのであれば、奥様に対して心を開いてください。最後の最後まで」
「……」
「できますか?」
「正直、プラスのものについて見せるのはいいんですが、自分の中のマイナスのものについて見せるのは必要だとは思えないです」
「奥様はそれで満足されていますか?」
僕は思い出した。なつと交わしたさまざまな会話を。
「何度か隠さずに見せてほしいと言われた気がします」
「どうしましょうか。わたしのアドバイスや彼女の要望に沿っていろいろなことを隠さずに話しますか?」
「……やり方を急に変えるのは苦手なので、ちょっと考えさせてください」
「いいでしょう。それと、中條さんのお母様はすぐに会えるところにいらっしゃいますか?」
「母も仙台に住んでいます」
「今、ご関係はどうですか?」
「ええと、どう、というと?」
「普通に会って話したりされてますか?」
「ああ、時々やり取りしていますが」
「これは心理的に抵抗があれば無理にとはいいませんが、お母様に会って関係を修復されることをお勧めします」
「修復、ですか?」
「今、感じられている不安の原因はお母様との幼少期の関係にありますので、直接その原因を与えられたお母様とよく話し合われたら、大きく改善されると思いますよ」
「……」
「これは無理にとは言いませんので、頭の片隅にでもとめておいてください」
わたしが必要ないと判断するまでは、定期的に来院して経過を教えてくださいと言って、その日の診察を終了した。
***
おばあちゃんが生きていた頃、彼女と僕には特別な挨拶みたいな会話があった。
「清一君、生まれてきてくれてありがとう」
これは、挨拶だった。僕たちの間では。大人になった今思う。これが毎日の挨拶のようなものだったって、やっぱりちょっと変わってる。
おばあちゃんはそれと、僕が大きくなってきていやがるまで、必ず幼稚園に迎えに来たとき、学校から帰ってきたとき、僕をぎゅっと抱きしめた。おばあちゃんはそれを欠かさなかった。忘れなかった。あれは、意識的にやってたんだと、今になって思う。
清一君はすごい、とか、おばあちゃんの宝物だ、とか、何かもう全部は思い出せないけど、とにかくオーバーな表現や行動が多かったと思う。全て、きっと、おばあちゃんはわかっていてやっていた。僕の心のバランスをぎりぎりで保てるように。洪水のように甘いものをいっぱいわざと僕にふりかけていたんだ。僕が母親から何も与えられない子だったから。
「お母さんはね、お病気なの。だから、今は、清一君と遊べないの。だけど、お母さんは今ね、お病気と一生懸命戦ってる。だから、おばあちゃんと清一君はそばでしっかり応援してあげなきゃいけないんだよ。きっとよくなるから」
祖母はこんなこともよく言っていた。僕は祖母にくっついて回って、祖母がするいわゆる応援をひとつひとつ真似しようとして、料理とかそうじとか、かなり小さい頃から真似ていたと思う。だから、僕は男のわりには意外と家事がうまい。
ただ、無心に祖母の真似をして自分も何かをしたかったんだと思う。母のために。
そういう無心さ、それと、危ういバランスで祖母が保っていた僕のぎりぎりの精神は、母の自殺未遂を目の当たりにしてしまった日に全部壊れた。あの出来事をきっかけに、大きな洪水のような逆流が僕の心の中で起きてしまい、僕は母から逃げようとした。
普段は夜ごはんを食べるまでしかいなかった祖母の家に、僕は泊まった。母が入院している間はおふろも夜寝るのも、おばあちゃんのそばになった。大好きで安心できるおばあちゃんのそばに。僕はあのとき、安定した祖母のそばのほうが母のそばにいるよりよくなってしまった。それはだって、しょうがないと思う。だけど、そのときでさえ祖母は僕を甘えさせたけど、全てを祖母に預けるようにはさせなかった。
本当に真の意味で賢い人だったのだと思う。べったりと自分に甘えさせることが、僕のために、もっと長いスパンで考えて、よくないと祖母は知っていた。だから、ある一定まで自分に頼らせても、雨あられと甘い愛をふりまきながらも、彼女は僕を母へとつなげようとしていた。そんな、困難な役割を祖母はになっていた。
「清一君、お母さんが病院から帰ってきたんだよ。今日はあっちのお家に帰りなさい」
僕は祖母をじっと見た。
「今日もこっちで寝ちゃだめ?」
祖母は僕のそばに来てしゃがみこむと、軽く僕の体を抱きながら言った。
「お母さんに会いたくないの?顔見たくないの?」
僕は何も言わずにうつむいた。ただ、怖かった。あのドアを開けるのが。きっとこれから毎日、家に帰ってあのドアを開けるのが怖いだろう。今日は大丈夫かどうかと思いながら母を探さなければならないあの時間が僕は怖かった。もう、僕は頑張れなくなっていた。
「清一君、今までおばあちゃんと一緒に頑張ってきたよね。ありがとう」
祖母は僕のまだ小さかった手を取って、なでてくれた。
「とてもつらい日もあったよね。だけど、長い間がんばってきたよね。もし、今、ここでそれをやめてしまうとね、今までがんばってきたものもなくなってしまうかな」
僕はまだ下を向いていた。
「それに、お母さんはきっと君が応援しないとだめなんだよ。お母さんには君が必要だから。今日行かないときっととってもがっかりしてしまうと思う」
僕は祖母の目を見た。
「ドアを開けるのが怖い。お家の。また何かあるかもって思うと」
そう、まるでホラー映画の中でお化け屋敷を進むような怖さだ。祖母は柔らかく笑った。
「おばあちゃんが一緒に行ってあげるよ。これから毎日。それならいいかい?」
僕はうなずいた。僕と祖母が玄関のドアを開けて中に入ると、父がいて、母がソファーに座っていた。僕の方をみて言った。
「おかえり」
「ただいま」
いつもの母だった。僕は走り寄って母さんに抱きつきたかった。だけど、あの日でさえも僕は僕の体は重い石のようにそこから動かず、僕は立ち尽くして母を眺めていた。生きていた。生きてちゃんと帰ってきた。この家に。
あの頃の僕はほんとうに疲れていた。祖母はいつも母はよくなると言っていた。だけどもう何年も母はよくなったり悪くなったりを繰り返し、挙句の果てに薬を飲んだから。限界だった。限界でいつもう逃げ出してもおかしくないぎりぎりで、それでも、まだ、最後だと思ってほんの少し頑張った。
その後、母はよくなった。よくなったりわるくなったりのジグザグがふいに、ただまっすぐにゆっくりとよくなった。
祖母が、僕と母の間にかろうじて細い線を残してくれた。いつぷつりと切れてもおかしくない線を。祖母はただ僕の未来を考えていたのだと思う。彼女は母の悪口をけっして言わなかった。一度も。そして、僕に同情しなかった。一度も。どんなときも、僕に逃げ出すという選択肢を与えなかった。それは、本当にすごいことだと思う。それは一つに祖母が賢明だったのと、一つにただ僕の未来を考えてくれていたからだと思う。
一度も幼い僕がどんなに胸がつまるような出来事に出合っても、隣で僕に同情して涙を流さなかった。かわいそうと言わなかった。そして、母が完全に回復するのを待っていたかのようにある日、床に今度はおばあちゃんが倒れていたんだ。
せめて、台所のような汚い床ではなくて、畳の上に倒れていてくれたらよかったのに、と随分後になってから思った。そして、一人ぼっちになったときに、僕はなつとであった。