足利義教~くじ引き将軍~(小話)
足利義教の将軍就任の時のごたごたを少しのぞいてみましょう!
以下の記事の補足です。
ぜひご覧あれ。
出家
足利義教は、3代将軍義満の次男であり、兄は4代将軍の義持である。
将軍職は基本的には父-子で継承されるので、普通に考えれば次男の義教が将軍になる未来はなかった。
元服の儀も行わないまま、得度して僧となり、延暦寺天台座主にも就任している。
足利義量
義持は将軍職を子の義量に譲るも、実権は手放さず政治を行った。義量が早世した後も義持はそのまま政治を行い続けた。将軍職はこの間の2年間空白であった。
中大兄皇子が斉明天皇の死後、即位せずに称制(即位せず、天皇としての政務を行う)ことをイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。
後継者はどうする?
そんな政治も長くは続かない。義持だって死ぬ時が来る。
義持は最終的に後継者を選ばないまま亡くなった。
義持は最後まで「跡継ぎは重臣らで決めよ」と言っていた。
困ったのは臣下だ。そこで考えられた妙案が「義満の子の中からくじ引きで将軍を選ぼう」と
え?
現代的な感覚では「なんで?」と思うかもしれない。しかし、ここは中世。まだまだ呪い・まじない・祈禱が支配する世の中。くじ引きで選ばれるとはつまり神に選ばれるということである。神様のお墨付きなのである。ちなみにここでの神とは八幡神のことである。
将軍になりたかった人
ここで義教と争ったのは鎌倉公方の足利持氏である。持氏は義満の子ではないが、義持の猶子(血縁関係のない親子関係)であり、将軍家の血も引いているため将軍就任を望んだが、叶わなかった。これがきっかけとなり持氏は義教を恨むようになる。
この恨みが、後の永享の乱(1440)への布石となる。
くじ引き将軍誕生!…でも?
くじ引きの結果、なんと出家していた義教があたりを引いた。
みごと神に選ばれた義教はさっそく将軍になろうとしたが、僧籍に入っていたためもちろん頭はつるつるである。さらに元服前に出家していたため、元服(大人になる儀式)もしていない。
なので元服が必要だ。でも元服を行うためには「髪」が必要だ。
ということは
髪が生えるまで待つことに…
征夷大将軍の宣下はその後だと…
将軍いなくね?これはチャンス!
つまり、義持が亡くなった1428~1429年、義量が亡くなった1425年から数えて4年間も将軍の空白期間が生まれた。
もちろん政治的に不安定な状況だ。
この隙をついて発生したのが正長の徳政一揆であった(1428)。
「将軍が変われば負債は全部帳消しになる」なんて都合の良い話はそもそもない。あくまでも観念的なものとして存在していたにすぎない。
しかし、幕政の混乱をつき発生した徳政一揆を室町幕府は押さえることができなかった。
嘉吉の徳政一揆(1441)も、「将軍此の如き犬死、古来其の例を聞かざる事なり」(『看門日記』)と史料に表現されるように前代未聞の非常事態であった。幕府は一揆勢を抑えることができずに初めて公式に徳政を認めてしまう。
足利義教を記録した人物
義教は日本史の中で「大悪人」とされる人物で、その独裁ぶりが後世に伝わっている。
義教を今に伝える一次史料として、伏見宮貞成(さだふさ)親王が著した『看門日記』がある。
この伏見宮貞成親王という人物には、面白くもかわいそうなエピソードがある。また機会があれば紹介しよう。