私は母性を想像することしかできないけど
私は女性で、既婚者。年齢は30代前半。
パートナーは男性で、籍を入れて4年経つ。
一緒に暮らし始めたのは、それより少し前だ。
子どもはいない。
宿したことも、ない。
母は映画を見るのが好き。私は本を読むのが好き。
会った時にはよく互いが見たり読んだりした作品や、
今気になっている作品について話す。
ある日、母が「CMで見る『母性』見たいんだよね」と言った。
私はまだ原作を読んだことがなかった。
主演である女優二人の演技は実力派だし、
原作を執筆した作家の他作品は過去拝読し、その面白さに圧倒された。
「いいね、見よう」
映画公開予定日を確認して、二人で観に行くことを約束した。
公開されて数日、母と待ち合わせて映画を鑑賞した。
演者の方々の演技に逐一気圧される。
時間が経過していくうちに徐々にスクリーンにのめり込んでいく感覚。
良い作品を鑑賞した時の醍醐味を存分に味わう。
特に、戸田恵梨香さん。
同じ台詞でも動作でも、視線、表情、些細な仕草の一つの違いで、
こんなにも受け取る側の印象は違うのか。
大きな音もしない。座席も動かない。
それなのに、場面場面で殴られたような衝撃を受ける。
歯痒さに顔が歪む。胸が痛い、悲しい。
永野芽郁さん演じる、娘の心に共感する。
そして物語が終盤に差し掛かり、私は焦りを覚えた。
母が、隣で何度も涙を拭いている。
その横で私は、自分の中にある母性を探していた。
見つからない。
見つからない。
見つからない。
もうすぐ映画が終わってしまう。
私には兄弟が3人いて、それぞれにパートナーと暮らし、
数年前から兄弟は子宝に恵まれ幼い甥と姪が数人いる。
仲の良い友人にも何人か子どもができた。
小さな子特有の、湿った手のひら、高い声、無垢な笑顔。
その貴さにふれるたび、胸があたたかいもので満ちる。
何度もそれを経験している。
でも、それはきっと母性とは呼ばない。
母性とは、おなかの中に命を宿した人
もしくは、命を守り育てる覚悟がある人
そんな母親と呼ばれる人だけが持つ性質だと思っていた。
だから母親になれば、私もその性質が自ずと備わると。
では、この映画を見て何故こんなにも焦るのか。
映画は表題の通りに母性をテーマにしている。
だからいやでも、訴えかけてくる。わかったつもりでいた。
母、と、子。
愛したい、と、愛されたい。
ショックだった。
私、私もしかすると、母性がないかもしれない。
子どもが生まれたとしても、
それっていいの?
映画が終わった。クレジットが流れる。
なんとも言えない気持ちだった。
作品の完成度は私などが語れるような代物ではない。
ただ、考えたことがなかった母性という言葉の意味に対して、
こうも複雑な考えを巡らせてしまうほどの作品だった。
隣の母は動かない。まだ、スクリーンを見ている。
私たち兄弟4人を育て上げた母。
もし娘に母性がないなんて知れたら。
知られたくないな。
私はお嬢様と呼ばれる環境で育ってこなかったし、
仕事も結婚も周りの意見を聞きつつ、自分で人生を選択してきた。
これから育ててくれた親に恩返ししていきたいと考えている。
楽しいことを一緒に見たり、したい、とも。
でも、母性がなければ、私は一生娘のままなのか。
それでいいのか。
未来を託す子どもがいない。
託したいと、まだ思ったことはない。
これから思うかなんてわからない。
今母性はないけど、なくてもいいけど、それは欠陥とは言わないけど、
隣にいる母親を悲しませてしまうことは、悲しい。
館内が明るくなる。
立ち上がって伸びをした母が「すごかったね」と言う。
「本当だね」と返しながらごめんね、と思っていた。
終わってしまえば、戸田さんの演じたルミ子に
自分がなりかねないことに罪悪感を抱いていた。
それがルミ子を否定するみたいでとても嫌だとも思った。
考えすぎてぼうっとした頭のまま黙って階段を降りていく。
出口に向かう時、そうだねぇ、と母が呟き、続けた。
「母性なんて、あとから生まれるのかもね。
経験を重ねて形成されていく面があるんだろうな」
そんな感想が出てくるなんて。
娘がかわいそうだとか、そればっかりかと。
母が言った「母性はあとから生まれる」は理解できる。
私もそう理想していたから。
宿したことを認識したら、生まれる性質だと。
でも、「母性は経験を重ねて形成されていく」なんて、
そんな考え方もあるのか。
確かに、初めておなかが大きくなって、産み落とした生き物を、
すぐに愛しいと思わないといけないなんて決まっていない。
放って置けない命の世話を生む前からも後からも焼いてると、
辛くてきつくて嫌になることがたくさんあるだろう。
それでも自分を必要としてくる存在。
抱く感情はきっと計り知れない。両の手じゃ足りない。
でもそのうち、何倍も報われるほどの、
泣いてしまうほどの貴い瞬間に、出逢う。
それに、生きてる間に何度出逢えるだろう。
今、空を跳ねるような一瞬の喜びを感じたら、
ほらまた海底に叩き落とされる日々。
それを繰り返しながらいつしか、
ふとかけがえのない大切であることに気づく。
これは私の想像する、母親の姿。
母性は、あとから形成されていく。
それは翌日かも知れないし、一年後かも、二十年後かもしれない。
離れて初めて、気づくかもしれない。
さっき探し続けても見つからず途方に暮れ、もう諦めかけていた
母性というものの輪郭がぼんやり見えた気がした。
もちろん子はものではないが、手をかけたものに生まれる愛情。
そう想像したら私にも少し理解できた気がする。
実際のそれとは全く異なるかもしれないが、今の私には充分。
子を愛するという気持ちが芽生えた時、
これまでの重く暗く戦った道のりも含めて
母性と呼んでいいのかも知れない。
母と遅めのランチをとりながら、映画の感想を語り合った。
選んだ明太子クリームパスタをフォークで巻きながら、
ちょっと勇気を出して言った。
「母性のわからん私は娘であり続けるのかなぁ」
母はパスタを頬張った。同じ明太子クリームパスタ。
うーんと唸って飲み込む。
「でも私は、お母さんといるときは娘に戻るし、
子どもといたら母親になるかな。どうだろうね」
確かに。
食後のドリンクが運ばれてきた。
母はマンゴージュース。私はアップルジュース。
私たちは子どもがいるいないからよりも前提に、
違う人間だからわからないよね。
翌日、映画『母性』のオフィシャルサイトを見た。
キャストのコメントを読む中、原作者の湊かなえさんで目が止まった。
母親と娘の両方の気持ちがわかれば、
もっとこの作品の真髄を味わえるのだろうか。
でも今はどちらの気持ちも持っていないというのは、
納得いくような作品を書ききったから?何故だろう。
湊さんはこの物語の果てに何が見えたんだろう。
母親と娘。母性。
映画で掴みかけた自分なりの答えのようなものを探りに、
今度は原作を読んでみたいと思う。
見えるもの、感じるもの、変わるだろうか。
自分の中の、母性と呼べる性質に気づいている人も
自分の中に、母性と呼べる性質がないと思っている人も
そもそも母性とは何か考えてみたこともない人も
ぜひ母性と向き合ってみてほしい。
男性も、母親であり娘である女性の本質にふれてほしい。
この作品を通して。
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