読書日記*『傘を持たない蟻たちは』加藤シゲアキ
「羨ましい」
小説家に対してこんな感情を抱いたのは初めてだった。
全6編の内、最後に収録されている短編『にべもなく、よるべもなく』。頑固で気難しい存在として近所の大人に距離を置かれている根津爺が、主人公の中学生にこんなことを言う。
ー喜びは有限。悲しみは無限。ただ出来事として受け入れる。ー
当時大学3年生であった私に、この言葉が強烈に胸に焼き付いた。学生ならではの鬱屈とした心にすっと入り込んできた柔らかな灯火だった。
「根津爺、いいこと言うじゃん。」たが、すぐに考え直した。この言葉を思い、創り出したのは根津爺ではない。作者 加藤シゲアキである。
この時私が思ったのは「こんな素敵な言葉を書けるなんて凄い!」ではなく、「読者(他者)の心に言葉によって光を灯すことが出来る小説家が羨ましい」であった。賞賛を通り越しての羨望である。
それから5年、社会人となった私はもう一度この小説のこの言葉を読んだ時、初読のあの時の感情をそのまま思い出した。思い出したというより、再び光が灯ったと言った方がよいのか。言葉というツールを通し、自分の考えを名前もどこにいるのかも知らない他者に届け、その人の心を救うことが出来る小説家に憧れの感情を抱いた瞬間である。
ちなみに、にべないとは「愛想がない素っ気ない」、よるべないとは「行き場がない」という意味である。
この本は、自分自身や様々なものと葛藤しながらも、それでもなんとか生きていく主人公達の姿が丁寧に書かれている。劇的な展開やハッピーエンドが待っている訳ではない。だが、人生とはそんなもので、小さな光が壊れないようにそっと抱えながら進んでいくものなのだ、それでいいのだと私の心に寄り添ってくれた大切な一冊である。