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風信帖 〜空海の手紙〜
11月頭、高野山を訪れたのち、東寺にも足を運びました。
何故ここに来たかというと国宝 風信帖 が展示されていたからです。
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風信帖とは
空海が最澄に贈った三通の書簡を「風信帖」といっている。もとは五通あったが一通は盗難に遭い、一通は天正二十年(一五九二)に豊臣秀次に贈り、共に現存しない。
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2016年に大阪で「王羲之から空海へ」という展覧会があり、その時に風信帖を目にしているのでその時以来。
第一通から第三通まで一つの巻子(横長の巻物)になっています。
第一通は王羲之の書法に則った謹厳なもの。
第二通は墨がよくのっていて、力強く印象強い。
第三通は比較的軽快な筆致で、草書が多く用いられる瀟酒な書風。
一つの巻子になるとその作品の違いがよくわかります。墨の色も結構黒々としていました。
少々歴史を振り返ります。
〜唐への旅立ち〜
空海と最澄は共に、延暦二十三年(八〇四)五月十二日、難波の港を藤原葛野麻呂を遣唐大使とする四船団よりなる船に乗り出帆します。
空海は第一船、最澄は第二船です。
この時すでに最澄は平安仏教界を代表する仏者で、短期視察を目的とする還学生である一方、空海は私度僧で、渡航に当って急遽、東大寺戒壇院で出家し具足戒を受けました。二十年間の長期留学が義務付けられています。
いわば最澄は教授クラス、空海は学生といったところです。
この時、二人は面識がなかったようです。
第一船は八月十日に福州に、第二船は九月一日に明州の寧波に到着します。
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ちなみに、第三船と第四船は難破しているので、二人とも運が良かった。
〜入唐後〜
最澄は主に天台山で天台教学を学びます。同時に密教も少し学んでおり、密教経典も持ち帰ります。
最澄は任終えて、延暦二十四年(八〇五)対馬に帰着します。
一方空海は長安に滞在して、密教の正統を受け継ぐ青龍寺の恵果に師事します。
時に恵果、六十歳。
「わが寿命が尽きようとする今、真に密教の奥義を伝えたい人物を得た。秘宝の全てをそなたに授けたい。」
そう言い、密教最高の伝法灌頂の儀式を受けさせ、恵果に継ぐ密教第八祖の資格を与えます。恵果はその四ヶ月後に亡くなってしまう。
それから空海は密教に関わる経典論書、書や曼荼羅、仏像などを求めていきます。
そして空海は在唐二十年の国法を破り、大同元年(八〇六)に帰国します。
この留学期間の短縮は流罪や死罪に値する大罪です。
〜帰国後〜
最澄が帰国した延暦二十四年、桓武天皇は重い病の床についていました。
これを治せるのは天台の仏教ではなく、密教の祈祷の力。最澄は天台仏教が最も優れた仏教であると確信していますが、必要とされるのは密教の教え。
最澄はもっと密教を学びたいと思うわけです。
空海は帰国後、大宰府に留まります。
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空海は唐から持ち帰った請来品の数々を書いたリスト『御請来目録』を上奏文に添えて朝廷へ届けます。
最澄はこれを見て驚きと戸惑いを覚えたでしょう。自ら丁寧に写したものが今も伝わっています。
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一方で空海はなかなか入京の許可が下りません。勝手に留学予定を変更しているわけですからね…。やっと大同四年(八〇九)洛西の高雄山寺(神護寺)が定住地と決められます。
どうやらこの少し前から二人の手紙のやり取りが始まり、経典の貸し借りが行われるようになったようです。
そして弘仁一〜三年(八一〇〜八一二)年ごろ、風信帖が書かれます。
空海が書いた風信帖といえばそれまでなんですが、背景に存在する歴史は壮大なものです。
二人は暫く経典の貸し借りを続けますが、弘仁四(八一三)年、空海が最澄の『理趣釈経』の借用の申し込みを断ったことを機に、決別することになります…。
こちらは最澄筆 久隔帖
最澄が空海のもとにいる弟子、泰範に宛てた尺牘(手紙)。
几帳面で、真面目な人柄が伝わってきそうです。
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来年は今に伝わるこれらの字を学びながら、少しずつその内容を掘り下げていこうと思います。
【参考文献】
・『最澄と空海』 梅原猛 小学館文庫
・『墨 104号』 芸術新聞社
・『墨 161号』 芸術新聞社