絶望するにはまだ早い
何と良い人生を送ったことか。
もっと早くそれに気づかなかったことだけが残念だ。
─── シドニー=ガブリエル・コレット
2006年に公開されたロードムービー『リトル・ミス・サンシャイン』には、何人ものどうしようもない、変わった人物が登場します。
そもそもこの映画には変わった人物しかいないのですが、中でも拗らせ具合が重症なのが、フランクという男性です。
この人は物語の主人公オリーブの伯父に当たり、彼女の“美少女コンテスト”出場のための、一家総出の遠征旅行に同行します。
先ごろ自殺を図り、まだ一人にはしておけないという理由のために。
一行はニューメキシコからカルフォルニアまで、800マイル(約1287km)もの長距離を古びたワゴン車でひた走り、その途中や到着先で、様々なトラブルに見舞われます。
そのいささか奇妙な旅をスクリーン越しに見守るうちに、こちらまでえもいわれぬ連帯感に包まれていくのですが、物語の終盤で、思わず腰を浮かせかけた、フランクのこんな台詞がありました。
「プルーストを知ってるだろう?
負け犬だった。
マザコンで病弱、一度も職に就いたことがなく、報われない恋に生きたゲイだ。
生涯で書いた小説は一作きり。
でも、天才だった。
彼は世界を変えた」
“一作きり”以外は全てが真実で、フランクのこの言葉は、作家マルセル・プルーストを残酷なまでに端的に言い表しています。
それもそのはず、フランクは自称〈アメリカ一のプルースト学者〉であり、自殺未遂の原因は、そのお株と恋人とを、ライバルに一度に奪われたためでした。
私は誰かに好きな作家を尋ねられると、決まってプルーストの名を上げるのですが、超大作『失われた時を求めて』を書いたこの人には、フランクが述べた以上の伝説的な逸話がつきまといます。
晩年、コルク張りの部屋から決して出なかった、というのもその一つであり、極度に神経質なプルーストは、ひとり自室にこもってひたすらにペンを動かしました。
けれど物語の分量があまりに規格外であったため、終わりに辿り着くより早く、死が彼を捕えます。
プルーストは51歳で亡くなり、『失われた時を求めて』は、ひとまずの決着がついてはいても、厳密には未完のままです。
死後の出版分はまったくの下書きであり、不正確な点や論旨の破綻、矛盾が多く見られるからです。
けれども、それはいささかも作品の価値を減じることにはつながりません。
この物語が〈世界一長い小説〉としてギネス記録に認定されていることは有名ですが、最も素晴らしいのはその記録ではなく、作品が人間の感情と記憶、欲望と高潔さなど、それまでの文学では触れられなかった“心”そのものを描き、今なお誰も到達できない高みに達していることです。
フランクが語ったように、プルーストはままならぬ人生を生き、いかなる栄光とも無縁のままでこの世を去りました。
常に焦燥感と不安を抱え、精神的な苦痛のみならず、肉体的な病にも生涯苦しめられました。
同性愛者でありユダヤ人の血を引くことを、周囲に死ぬまで隠していました。
心の支えの母親が亡くなった失意から、二度と立ち直れませんでした。
こう書くと、彼はその功績も空しく、いかにも悲惨な人生を送ったかのようですが、さにあらず。
こんな言葉が書き残されているからです。
死を前にして悟った。
苦悩の月日こそ、自分を育んだ最良の日々だったと。
これはおそらく全ての人に当てはまることであり、過去、あるいは今現在、どれほど心身が辛くとも、それで絶望するのは早すぎます。
どうにかそこをくぐり抜けることができれさえすれば、きっと、前より強くなった自分として、より良く生きられるように思うのです。
『リトル・ミス・サンシャイン』のフランクも、最後には自らの意思で、死よりも生を選びました。
惜しくも志半ばで命を落としたプルーストと違い、私たちにはまだ多くの持ち時間が残っています。
その上、プルーストよりももっと早く、辛い出来事が自分を鍛える砥石になり得ると知ることができたなら。
ただ苦しみに押し潰されるのでなく、別の生き方が選べるのではないでしょうか。
だから、やや大上段ではありますが、こう言いたいと思います。
日々大変なことは多くとも、きっと、大丈夫。
生き続けてさえいれば、いつか、心からそう思える日が来るはずです。
冒頭に上げた、波乱万丈の人生を振り返ったコレットの言葉さながらに。
だから、私たちは“気がつく瞬間”を前倒しにして、少しでも愉しい気持ちで、何があろうと絶望などせずにいきましょう。